信者のゆくて

浄福 第37号 1976年9月1日刊
 信者のゆくて
在家の信者と、弟子の出家修道者とは、その徹底の仕方において、かなりの差があるとみるのが、実際ではなかろうか。勿論、信者においても、信仰に徹底することは不可能ではないが、数はずっと少かったとみねばなるまい。
 
在家信者は、実際に、経済的安定を着実にはからねばならず、子供を養育し、学校にもゆかせねばならない。これだけでも大変なことなのに、家まで建てようとするならば、とても宗教の方に時間をさくという余裕は出てこない。
 
妙好人吉兵衛の話を読んでも、全んど家業の農作はほったらかにし、奥さんにまかせっきりで、次第に財産もすりへらしていつてることが分かる。この位、徹底して法を求めて廻らぬ限り、信心の徹底までゆきつくことはむずかしいことであろう。
 
しかし、信仰、信心というものは、初めから、どうなるからやる-といった明確な計算を立ててからやる人はめったにいない。何かにさしせまってか、一つの教養、思想として求めるか、先祖からの習慣としてやるといったことであろう。ひとからいろいろすすめられてから始める場合もある。しかしいずれにしても、仏教というものは、自発心を土台にするので、それが出てこない間は、本物にはなりにくい。なぜなら、目先の御利益といったことを主にするのではないからである。

そこで、ます信者となるためには、御利益(幸せ)を求めているのか、覚り・救われ(徹底の境地)を求めてやるのか、自分自身をはっきりさせねばならない。在家であるから、御利益、幸せを求めて悪いということではない。仏教はそんなものではないはずだと、狭く考えている人が多いがそうではない。たゞし、幸せを求めるのであれば、そうだとはっきりして、そのような道をふみ始めねばならない。

「幸いと楽、得んとせば三宝信じ、施をなして、規律を守り…」と釈尊は幸せの道を明確に説いておられるのである。三宝への信仰を持つことが土台ではあるが、施をする(実行)そして人を苦しめるような悪いことはしない(実行)という規律を守ることが大切だと説かれる。幸福という事実が出てくる為には施(善)を行い悪を行わないという基本の実行が必要なのである。何もしないで、たゞ信ずれば、事実が幸福となるというのは全く不合理であり、迷信である。事実は実行によってしか生じない。努力すれば努力した結果が出てくる。その努力する心の源が信仰心なので、信仰心=努力とならねばならない。これが幸福、御利益の道である。
 
いかにものぐさな信仰でも、棚からボタ餅でも、自分で口を開ける努力をせねば腹はふくらまない。事実は事実を生じ、観念は観念を生じるという大原則をはっきり知ることが大切。  
 
世上に何かを信ずれば直ちに御利益を頂けるとする信仰があるが、何かを信じても、人殺しをすれば、願いがかなえられる前に罰を受けねばならない。金力を信じて不名誉そのものとなった実例に学ばねばならない。正しい、何かを信するということが、善いこと(施し=奉仕)はするが、悪いことは出来ないようになるというのでなければ、世の中はなり立たない。世の中自体がそのような自浄作用をするものである。幸福とは世俗のことであるから、この世の中の法則からぬけ出すものではない。 
 
であれば、何が善、何が悪かを初めに、はっきり学習することが 必要である。これが躾であり、倫理、道徳であり学問なのである。

何が悪か-これは仏教では実にはっきり説かれているのである。
 
五つの規律-殺・盗・淫・うそ・酒のみ。この五つを戒、いましめという。勿論これだけ守ればよいということでなく、これがすべての道徳の基本だということである。今日の日本全体のうわついた不幸が、実はこの基本の欠除に原因しているということが漸く分ってきたというところ。この遠因は日本仏教の指導力不足と考え、仏教徒として大いに恥じねばならぬ次第。 田辺聖恵


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