釈尊仏教の目指すもの(上)

浄福 第32号 1976年4月1日刊

釈尊仏教の目指すもの(上)                     田辺聖恵

無念無想が目的ではない
「たゞ坐る」「たゞお念仏」ということが云われる。それは仏教の教え(人生観・仏陀観)をいろいろとへめぐり、ついに己の内面にしっかりと定着させたあげくの全人格的な表れ、行相としての坐、口に出るお念仏ということである。たゞ単に口で唱える、坐る、あるいは無念無想になるのではない。無念無想を目的としても構わないが、それは仏教ではないということを明らかにしておかねばならない。

『剣』でも『茶』でも道がつくと無念無想が尊ばれるが、それも無念無想を目的としているのではない。仏教でも無我と無執着が混同され、何となく無念無想の境地を目指していると思われる方も多いのではなかろうか。

「まず坐れ」と「たゞ坐る」との違いを考えねばならない。この二つは共に坐る前の順序を説いていない。それはなぜか。以下お念仏についてを略す。同じ経路とみるべきだから。
 
心の動揺、悩み、過期待の人は、結果を先取りしようとして、何か丸薬のように即効を期待する。そこで「まず坐れ」と命令強制も必要となる。やってみると、雑念や疑問で一杯となる。そこで「師」を求めねばならないと気づく。そこで改めて入門、坐る順序を聞く。
 
「たゞ坐る」は、この坐る順序に従って、心の向上が進み、動揺が納まった状態を云う。順序(教育的システム)を説きかつ正導して下さった師との同一化である。前者は、師を求めよであり、後者は、師との同一化である。
 
坐るとは、据わる、己を据えることである。何も思わないのでなく、思いを据えることでもある。「思い」とは、人生観である。人生観とは「人間はいかにあるか」「人間はいかにあるべきか」の二つが一本化されたものである。これは私の師、水野弘元教授より伝承したものであるが、これはまさに釈尊よりの法統である。
 
『思い』=人生観としたら、無念無想は人生観を持たない人間になるということになりはしないか。無念無想を体得すれば、あらゆる場合にパッと適応できるということもあるが、それはまさに達人、名人の境地であり、もしその人が、未だそれを体得せず、或いは半分しか体得していないといった過程であれば、どのような適応が出来ようか。
 
仏教が万人に開かれた道とされるのは、初めに人生観を教え(信による)その確信の度を伝え(信による)行為による手本を示す、と同時に体験化をさせる(行による)ものであるから、信者も弟子も共に受け入れやすいものである。まず知によって、理解し、直ちにそれを己の人生問題や環境に応用することが出来る。
 
つまり定規の使い方を教えて貰えば、誰でもその定規を使うことが出来るというのと同じである。その都度、己で考えねばならぬというのではない。人生観とは、ものの考え方、法、真理=基準。


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