三宝という基本信仰

浄福 第37号 1976年9月1日刊

  三宝という基本信仰
 
幸せを得る為にも、覚り・救われの徹底を得る為にも、第一の基本―「三宝」を信ずることが必要である。三宝とは、

ブッダ仏陀)―理想者、真理を体得して、自らその様に活き、これを人々に教え導き(正導)、一切の苦しみから救い取られる方。真理によるので単に不思議な力によるのではない。
 
ダンマ(正法)―真理、人間、自然のなり立つすじ道。縁起のこと。すべて移り変りし、永久不変のものはない。それはすべてが相互に影響しあっているから。学問の究極。
 
サンガ(正僧伽)―仲間、真理を学習し、自立し、他に正導することで互恵しあう、修道者の和合する集団。個人ではない。
 
釈尊が、開始された仏教は、この三つの宝(この世で最も価値のあるもの)でなり立つので、一でも欠けたら仏教ではないとされる。日本の仏教宗派が、仏けさまを強調したり、お題目を強調したり、坐禅を強調したりするので、まるで違う信仰のように感じる人が多いが、それはその一つに右の三宝がこめられているということなので、その点でどの宗派も三宝という共通の地盤、基礎の上になり立っていると云える。又そうでないなら、たとえお経は仏教のを使っていても、実はまがいもの盗法ということになる。釈尊を否定する教団もあるのだから恐れ入らざるを得ない。
 
何が本物か、まずこの三宝が入っているか、説かれているかを判定する基準にしなければならない。又釈尊はそうした判断の上で信仰を選べと云っておられるので、こゝにも単に感情的な信仰と違うという仏教の特色を見ることが出来るのである。

基準がぬけると、とかく自己流になって、一人よがりになりかねない。そこで、つねに初心にかえって、基本を学習、反省することが必要となる。そのためにも、善き師、善き先輩、正導者につくことが望ましい。今日は特に、僧職の方が指導をする時間を持たぬので、読書による仏教知識が主になり易いが、これは又、一面のみの人生論となり易いので、注意せねばならぬことである。
 
仏教は、人間のよりよき生き方の問題であるから、その生き方のお手本を見るようにしないと、心の題題、観念の問題で終ってしまいやすい。心の持ち方を教えられただけで自分なりの、その法に合致した生き方が出来るという人は、よほどの人であって、普通は、手をとり足をとって教えて貰わないと、どのような実践をしてよいか分らないものである。たとえば、合掌や正座の仕方にしても、百聞は一見にしかずで、お手本というものが、大変に重要なものとなる。田辺聖恵


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