衣鉢をつぐ者 (下) 共に行じる

浄福 第36号 1976年8月1日刊

               衣鉢をつぐ者
共に行じる

                                     田辺聖恵
反省することの早かった彼に師は、学習をする者のあり方、価値ある人間としての生き方をねんごろに教えられる。

共に行じ、一つ所に往することが、学習者のまず第一の条件である。各自が個性を主にしていたならば、師の教えは、道統として伝えられることはない。仏教というものは、知識や発見ではない。それらはどんどん拡げられてこれでいいということはないが、仏教は、たゞ一つの真の価値に到達するということを目的としている。

覚りというたゞ一つの目的にゆきつくことを目的としている。浄土門の往生ということも同じことである。従って、あれこれと、沢山のことを知り拡げなければ達成できないといったことではない。いわば一は一であるといった、つねに一つの目的に集中化されてゆくものである。それだから道統とすることが出来る。創造し、拡大してゆくのであればとても道統とはならない。まるで異質なものにまで変化してしまうからである。
 
仏教とは、全く一本の道である。これを一乗道とも云う。師の歩む道が仏教なのである。共に住し、共に行じ、共に歩み、共に育つところに、仏教の根本精神がある。独自性といった変な色気などを全く要しないのである。
 
こうした「共に」という和合性(サンガ=和合する仲間)が身について初めて、他の人にまじわることも出来る。それによって押し流されるということもない。何が善、何が悪、さらに何が聖、何が俗かがはっきり分るよりになって、その悪をさけ、俗を聖に一歩でも近づけようとする。そこに学習、修道者としての智者の道がある。
 
乳を飲むあおさぎが乳を飲むとは、何か真に已にとって必要かと分っている者をたとえている。私共はいわば子としての未熟さから、親の乳を貰わねばならぬのに、何か一人前になったような浅墓さから、水を飲み始めて栄養を失って枯死することになり易い。第一そうした善き師、正師を持つことすら気づこうとはしない。
 
雲の上のような非人格的な神仏にのみあこがれ、本当に已に慈養を与えてくれる師・親をしっかりつかもうとはしない。はるか彼方の神仏に信仰をささげることの方がいかにも誠心誠意のようであるが、実は、何も奉仕するという具体性を要しないことで、観念の世界で安易に自分の願望だけを獲得しようとしているまことに巧妙なずるさがある。こうしたずるさの上に神仏は現われるものでなく、自分自身が映じ出している蜃気楼にすぎない。師を通してしか本当のみ仏けは現われないということをはっきり云わねばならない。
 
このことがないがしろにされていることが無宗教日本・道徳低下の極となってきたのである。

 信教の自由
今日の日本は憲法で、どんな宗教でも信仰でも持ってよいということが保障されている。これはまことに有難いことである。それはどんな宗教を求め選び、取替えてもよいということである。家の宗旨であるから、別に信じないけど、その習慣を受けつぐというのが、日本人の大部分であるが、これは中味は信していないのだから、無信仰と同じである。葬式などの行事は大事な日常性であるが、それが直ちに宗教ではない。それを宗教の場にするしないは別の話である。葬式法事は真理・法へのいわば誘い、機縁なのである。
 
信仰や宗教は、信に入る過程で、いろいろと疑い迷い、選び批判する。そこに自由が必要。しかし自分で納得して信の世界に入ると、むしろそれに集中され自由ではなくなる。共に住し、共に行うということは自由ではない。自由とは違うということである。それ以外の生き方を必要としなくなるということである。
 
社会生活上の幸福を中心にする時期も必要ではあるが、自由主義という無思想、全体主義という硬直思想から、別に自由、不自由だけでしか考えられないような狭い世界から、もっと広大な世界へと己を転換、展開させるための基礎的な条件が信教の自由ということである。そうした求道をしないのは自由でなく怠けであり、それこそ今日最大の煩悩である。豊かさ=怠け、これはまさに貴重な自由という条件をドブに捨て地獄への道に落下しつゝあることなのだ。


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