師弟の道 啓蒙こそ真の仏道

浄福 第38号 1976年10月1日刊
「師弟の道」
                                 田辺聖恵
   啓蒙こそ真の仏道          
仏教は勧善懲悪ではない。その善と悪をこえた究極の、真理体験を目的とする。そこで自己を完了はするが、それから他の人々の善、幸せのために生きるのである。つまり勧善懲悪がより正確に、誠実に行われるために、真理を背景として、啓蒙活動をするのである。真理(縁起・空・本願など)だけを説いて日常善を無視したり、軽視したりするのではない。 
 
善因善果-悪因悪果という業報論を明確にし、何が善、何が悪かを明らかにし、たゞ単にゆきあたりばったりに生きることを止めさせるのが仏教としての在家道である。業とは行い、実践であり、報とは結果のことである。実践は勿論、発意、自発的決心も入ってのことで正確には、決意ー実行ー結果、この三つをより善にしてゆくということを、仏教者の使命とする。それが正導であり、啓蒙である。日常者への働きかけ、これが仏教者の第二段階である。
 
こうして善への勧めが充分になされ、それではもの足らないとしその善と悪の基準、根源を知りたい者に、初めて、真理悟入への専門道を開示する。これが仏教者の第三段階である。

 第一段階-専門道へ入る前の、在家生活の尊重
 第二段階-専門より下ってきて、在家生活の正導    
 第三段階-専門道への開示(適格者のみ)      
 
このように釈尊仏教では、在家生活のよりよきあり方への配慮、重視が充分なされていたのである。弟子は已の専門化に重点がいっていたのであるが、仏陀釈尊、つまり仏けさまという方は、右のように、在家正導に重点があったのである。まことに仏けさまが、人天の師と云われてきたのはそういう意味なのである。
 
この世俗啓蒙の実事を、日本仏教は気づかなかったのか、いきなり、予備知識もない世俗者に、真理悟入をすすめるという「一段階ぬき」をやってきたから、儒学者から非難されたのであって、その非難は当然のことである。
 
今日、仏教界が大衆と離れてしまっているのは、大衆が、世俗日常を、より善たらしめる啓蒙の大事を行わないことに対し、暗黙の非難をしている、その結果である。この事実を事実と認めることからしか仏教再出発はない。つまり大衆に奉仕しない仏教は、大衆の側で要求しない、アヘン的、寄生虫的存在におち、かつ逃避することである。真の仏教者は金キラ金のエリート衣装を脱ぎ捨てゝ、まず大衆に聞かねばならない。あなたは何を欲するかと。


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