田辺聖恵師己人誌集

四段階の静思 (上)

「四段階の静思」 釈尊仏教の中核は八聖道、八聖道の中核は正見・正定 (正見は正しい考え方-正定は正しい成り切り) 原始仏教という云い方はかなり一般化してきている。それを聞いて異様に感じる人はむしろ少ない。だがこの名称には注釈が要る。 何故なら…

解脱後の自殺

『正善聖の人生』 体の病い心のゆがみを直して生き それは環境に振り回されない人生である 自分のペースでゆく正しい生き方である 自分なりの信条仕事観をもって生きる それはまさに輝かしい不惑の人生である 単なる幸福以上の善なる生き方である 納得がゆく…

真理法は病いにも有効

真理法は病いにも有効 二月十五日は釈尊が肉体的に亡くなられた日となっていて、ネハン会をとり行うお寺もある。八十歳になられた釈尊はその肉体の亡びに対して、心をすでに決められ、その機縁を待って居られたようである。ある信者のご供養食の中に毒キノコ…

仏教者の病いへの対所

仏教者の病いへの対所 病いと云ってもいろいろある。病菌によるものや、内臓器官の働き具合いや、食栄養次第、身体の使いすぎや、使わな過ぎ-それぞれは実際には複合しているから今日でも病気そのものは無くならない。これにさまざまな心因性が加わるのだが…

ソーナビクの修行

ソーナビクの修行 ソーナビクはまじめで真剣なるが故に、極端なまでの精進修道をする。それは一種のあせりの様なものであったかも知れない。日本でもこの頃は、テレビで何とか行といった苦行めいたのが紹介される。そしてそれが何のためかというと、ご祈祷す…

自伝的生き方論 『生き方を求めて』 教師界との交流

『生き方を求めて』 -自伝的生き方論- 『変・不変』 時代がどの様に変ろうと 変らないものと変ってならないものがある 究極とその究極をめざす生き方だ 北を指す磁石は不変のものだが その価値が大衆化されることはない 時代はめったに本質のまゝ動こうと…

自伝的生き方論 『生き方を求めて』 虚における実

『生き方を求めて』 -自伝的生き方論- 虚における実(下) 人間の理想とは何か。日常生活が平安で、文化的で、優雅であるということであろうか。地球上に四十何億かの人間がひしめき、その半分以上が、たゞ貧しさの理由で、自由を捨てゝまで共産化しつつある…

自伝的生き方論 『生き方を求めて』 虚における実

『生き方を求めて』 -自伝的生き方論- 『大いなる虚』 もしも幸せになるということだけなら 口角泡を飛ばすこともあるまい はかなさと紙一重が幸せなのだから 真実一路の旅なれど と歌があるが 真理の光りで照らして見ないと 判然とし難いのか真実なのだ …

自伝的生き方論 『生き方を求めて』 何かを求めて(下)

『生き方を求めて』 -自伝的生き方論- 何かを求めて(下) 旅に出るという程の元気さも持たない放浪、それはいわば、うずくまりに近い、内面の放浪とでも云えるのかも知れない。中三の時、家出を半日で止めた、ということがどうやら中途半端性の証明か。私…

自伝的生き方論 『生き方を求めて』 何かを求めて

『生き方を求めて』 -自伝的生き方論- 『人類の解放』 毎日が幸せ一杯であれば その幸せの陰にひそむ 何か もっと大切なものを見ることは難しい 喰うことに追われる毎日であれば 幸せか輝やく星となり もっと大切なものを見ることは難しい 戦争一つなくす…

自伝的仏教論 『仕事と生き方』 仕事から生き方へ

全現 第151号 1981年7月1日刊 -自伝的仏教論- 田辺聖恵 『仕事と生き方』 仕事から生き方へ 敗戦後、転々と仕事を変えてみるが、どれも好んでやることではないから熱も入らず、収入にもならない。とうとうゆきづまって、信仰の世界に文字通りとび…

自伝的仏教論 『仕事と生き方』 仕事の工夫

全現 第151号 1981年7月1日刊 -自伝的仏教論- 田辺聖恵 『仕事と生き方』 仕事の工夫 製図その他の一ヶ月の訓練が終ると職場配属がされ、私は商業学校中退であるので人事係に廻わされる。それから毎日、工員の給与計算。一人で三四百人を受け持ち…

自伝的仏教論  『仕事と生き方』 「思いつきり」の打ちこみ

全現 第151号 1981年7月1日刊 -自伝的仏教論- 田辺聖恵 『仕事と生き方』 「思いつきり」の打ちこみ 加古川市の教育長浜田満先生は季刊誌『香芹』を出して居られる。その第三十一号は公務員への講演内容であるが、驚いたことに「先見性」を強調し…

意義と文句

三宝第155号 『意義と文句』 意義と文句をそなえたる法を説けと 生ける釈尊はその弟子衆に命ぜられる 人間ブッダの人間への導き方針がそれだ 仏教の最終目的はニバーナ覚りであるが 釈尊はその意味合いと価値利益を説く 言葉を超えた体験であるが言葉を尽…

学習・体験・生活化・正導

三宝 第155号 「学習・体験・生活化・正導」 いわゆる信仰と言うと、何かが神秘的な力が自分を守ってくれる事を信じる、といったふうに思われるのではなかろうか。仏教もその様なものだと思うと、今日の日本のような宗教無関心が生じてきた理由が分かるよ…

仏教徒の道徳生活 (下)規律ある生活

浄福 第47号 1977年7月1日刊 仏教徒の道徳生活 田辺聖恵 日本仏教の出家は、出世の望みがないからとか、逆に宗教界で有名になるためとか、首をはねられるところを出家して世の中にかかわらないことを条件として許されるといったことでなされたことが…

仏教徒の道徳生活 (上)出家への誤解

浄福 第47号 1977年7月1日刊 仏教徒の道徳生活 田辺聖恵 出家への誤解 仏教に限らず、真の宗教は、人間のよりよき生き方を教えるものである。 仏教とは、仏陀(ブッター真理を正しく悟り、人々にその真理を正導なさる慈悲の行動生活をなさる方)の教…

師弟の道 大事の伝承

浄福 第38号 1976年10月1日刊 「師弟の道」 田辺聖恵 大事の伝承 日常善を土台とせねば、真理聖への道は開けない。又真理聖を背景に持たねば、日常善は、自己中心にたちまち堕落する。今日の自由主義の教育が、何らの権威としての背景を持たずに行…

師弟の道 啓蒙こそ真の仏道

浄福 第38号 1976年10月1日刊 「師弟の道」 田辺聖恵 啓蒙こそ真の仏道 仏教は勧善懲悪ではない。その善と悪をこえた究極の、真理体験を目的とする。そこで自己を完了はするが、それから他の人々の善、幸せのために生きるのである。つまり勧善懲悪…

師弟の道 受授の系譜

浄福 第38号 1976年10月1日刊 「師弟の道」 田辺聖恵 受授の系譜 釈尊仏教は、自主性の確立を第一とする。つまり、死という最大の難局に対して、それを恐れず、しかもあなどらず、見事に超越することである。浄土門で、他力によってしか救われない…

師弟の道 師の本質

浄福 第38号 1976年10月1日刊 「師弟の道」 田辺聖恵 師の本質 師とは何か。 一、自己形成(修行) 二、真実正導(啓蒙) 三、弟子形成(育成) 仏教に限らず、教育はすべて、人間形成を目的とする。少くとも日本においてはそういうことが出来る。…

施と捨

浄福 第37号 1976年9月1日刊 施と捨 三宝を信じるだけでも、釈尊仏教の仏教徒と云えるのであるが、さらに規律を守る(行動)ことが大切だと信ずる(やがて実行するようになる)なら、なお善い信者とされる。 つまり「三宝と戒」の四つを信仰するわけ…

三宝という基本信仰

浄福 第37号 1976年9月1日刊 三宝という基本信仰 幸せを得る為にも、覚り・救われの徹底を得る為にも、第一の基本―「三宝」を信ずることが必要である。三宝とは、 ブッダ(仏陀)―理想者、真理を体得して、自らその様に活き、これを人々に教え導き(…

信者のゆくて

浄福 第37号 1976年9月1日刊 信者のゆくて 在家の信者と、弟子の出家修道者とは、その徹底の仕方において、かなりの差があるとみるのが、実際ではなかろうか。勿論、信者においても、信仰に徹底することは不可能ではないが、数はずっと少かったとみ…

衣鉢をつぐ者 (下) 共に行じる

浄福 第36号 1976年8月1日刊 衣鉢をつぐ者 共に行じる 田辺聖恵 反省することの早かった彼に師は、学習をする者のあり方、価値ある人間としての生き方をねんごろに教えられる。 共に行じ、一つ所に往することが、学習者のまず第一の条件である。各自…

衣鉢をつぐ者(中) 師に従わぬ報い

浄福 第36号 1976年8月1日刊 衣鉢をつぐ者 師に従わぬ報い 田辺聖恵 自ら信を持って従ったはずの師に、逆らって、別の道を歩むということは、何か現代を象徴しているとも云えよう。個性尊重という流行語に支配されて、やたらと独自性を打ち出そうと…

衣鉢をつぐ者 (上) つきそい人

浄福 第36号 1976年8月1日刊 衣鉢をつぐ者 つきそい人 田辺聖恵 アーナンダ尊者が、釈尊のお身の廻りをお世話する常従のビクとなったのは、釈尊が御年五十五になられた時である。このナーガサマーラが、釈尊につき従ったのはその前のことであろう。…

釈尊仏教の目指すもの (下)

浄福 第32号 1976年4月1日刊 釈尊仏教の目指すもの (下) 信という心構え 田辺聖恵 信とはその教えられた人生観への信頼度のことであるから、これは人によって深さが違い、深いほど、己をより確にしてゆくのは当然である。法は真理であるから、一た…

釈尊仏教の目指すもの(上)

浄福 第32号 1976年4月1日刊 釈尊仏教の目指すもの(上) 田辺聖恵 無念無想が目的ではない 「たゞ坐る」「たゞお念仏」ということが云われる。それは仏教の教え(人生観・仏陀観)をいろいろとへめぐり、ついに己の内面にしっかりと定着させたあげ…

仏教の最終目的と理想 (下)

浄福 第29号 1976年1月1日刊 仏教の最終目的と理想 田辺聖恵 そこで釈尊は次善のものとして幸福法をまず教えられる。それが「次第説」である。しかしこゝではこれを略す。ともかく個人目的すらなかなか持とうとしない現実の上に人間の理想は考えられ…