施と捨

浄福 第37号 1976年9月1日刊

 施と捨           
 
三宝を信じるだけでも、釈尊仏教の仏教徒と云えるのであるが、さらに規律を守る(行動)ことが大切だと信ずる(やがて実行するようになる)なら、なお善い信者とされる。 つまり「三宝と戒」の四つを信仰するわけで、この信仰が、こわれることなく確立すると、四つのこわれざる信仰(四不壊浄信)と云われ、これはむしろ聖者のうちに入るとされる。 たゞ単に、何も道をわきまえず、欲望と試行錯誤だけで、行き先が分らずに暮らす凡夫とは違うということである。
 
この四つの清らか(浄)な信仰を持つ人は、もう後がえりすることがない。他の信仰や思想行動に再び迷いこむこともない。そこで不退転の位とも云われる。また先々では、いつか必らず正覚(浄土門では往生して救われるとなる)にゆきつくということで正定衆とも云われる。 
 
このように信仰が確立してくると、今迄、何事も手につかなかったような人でも、これから正にしい、善い、素晴らしい、(たゞし高ぶらない)本当の人間らしい生き方をするようになる。それが「施をする生き方」である。施するとは人々を喜ばせる行動をするということである。奉仕とも云ってよい。自已の幸福の為に初めは施しをするのだが、それがたゞ人々のためにだけ施するようになる。相手の人々がいつかは真の仏教の方向に進むであろうことを念願しつゝそのお手伝いとして奉仕をする。それはたゞ単に相手が欲望追求をすることに奉仕をするのではない。そうした見透しを持たないではそうそう永続きするものではない。
 
では、その施=奉仕とは何か。先ず第一に施すという形を通して、己自身が欲望を知らず知らず捨てゆく練習をさせて貰える。与えるということは自分のほうに無くなるということである。従ってまず、物=財を与えるということからやらないとはっきりしない。これが出来てから、身体を施し、心を施すというふうに進まねばならぬ。

そして初めて、真理(法)を施すという段階になる。これを逆にすると、法は話せるが物は惜しいということになりかねない。こうした厳しさが、信者の行となるので、この施道をぬいては、ついに本当の三宝の信者にもなれないということを、この信女カーリゴーダーのお経が教えてくれると云えよう。(三宝聖典第二部第二二項 信女カーリゴーダー)


https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキング