自伝的仏教論  『仕事と生き方』 「思いつきり」の打ちこみ

全現 第151号 1981年7月1日刊
 -自伝的仏教論-                       田辺聖恵
『仕事と生き方』

  「思いつきり」の打ちこみ

加古川市の教育長浜田満先生は季刊誌『香芹』を出して居られる。その第三十一号は公務員への講演内容であるが、驚いたことに「先見性」を強調して居られる。

『行政マンといえども、時代の動きを正確にキャッチして更に 先見性を持って、事に当る知性と能力、創造性といったものを持たぬとついて行けない。現に市長がいわれる事務屋とか、石頭と かいわれるのはそのことだと思う。柔軟な知性、創造性、先見性といったものを養わぬとそれこそ「落ちこぼれ」になってしまう。
 
それは学歴ではない。年令でもない。単なる経験年数でもない。自己研修だと思うのです。鋭く研ぎ澄ました知性だと思うのです』氏はその具体策として.泪好灰澆鮴気靴とらえての利用月に一二冊は手ごたえのある書物を読めーと云われる。そして氏、自ら
大変な量と巾の広い読書をして居られるのには、又一驚である。これが校長停年退職後の生き方であり実務態度なのだから。
 
日本は官僚国家と云われる程、国家の中核をなしているのが官僚の実情である。総理大臣が何十日間も定まらなくても国政は納まってゆく。そして経済界は官僚と握手することで成長を続ける。それ はかっての軍部(これも実は官僚)が経済界と結びっいていたように。地方経済もたいがい県知事を通した陳情ということでお情け行政といった感じ。これが日本的民主主義だとすればそれもよかろう。公務員が優秀な人材の集団であり、行政面の指導性を大いに発揮して貰うならそれにこしたことはない。もっともそれが大きな機構となりすぎても困るが。
 
そこで浜田先生が云われるような先見性や創造性、その土台になる知性を大いに自己研修をして頂きたいものである。私共の年代は「親方日の丸」というコトバが公務員のイメージと直結しやすい。少々不景気になると、すぐに公務員志望が増えるというのはどうも。  

さて前置きが少々長くなったが、私は戦時中、白紙応召、徴用公員として大村海軍航空廠でまる五年働らかされた経験がある。好んでいったわけではないから、この絶対に止めることを許されない仕事の苦痛にどう対処するかで、いろいろと工夫したことがある。
 
昭和十五年の十二月十七日、熊本から三百人の若者が徴発され、藤崎宮社頭で市長による歓送会、私は旗をもって駅まで行進、万才万才で汽車に乗せられる。当時東京から熊本へ帰ったばかりの私は、行く先の佐世保が内地か外地かもよく分らなかったのである。この時、満十七才。大東亜戦争の一年前である。
 
到着すると、トラックに乗せられてゆき、二間きりの公員住宅に四人づつ下宿、翌日から一ヶ月間の基礎訓練となる。最初の一週間は、仕上げ作業。万力にはさんだ鉄の面を水平になるように鉄ヤスリでこする。次の一週間は、銅工作業。丸く切ってある平らなジュラルミンを鉄の丸棒に金槌でたたきながら(シボリ作業)次第に立上りさせ、ついにコップの形に仕上げる。
 
平面が立体に出来上ることは不思議なくらいだが、合理性と技術の結果である。もっとも最後に底の端がピリッと破れ、水が洩ってしまって失敗。
 
次は難物のタガネ切り。タガネを金槌で打ちこんで鉄片を切断するのである。腰をすえ、身構えて、左手に持ったタガネの頭に、右手の金槌をたゝきつけるのである。これを指導員のピッピッという笛の相図でやらねばならない。手もとが狂ったり、すべったりで、左手人さし指の関節をたゝいてしまう。毎日何時間もやるから、たちまち関節はハレ上り、右手で指を動かすとギクッギクッとまるで関節がゆるむ音がする。いつまでたってもうまくならないのにイライラした指導員(工員養成所出身の若いプロ)が、皆、見ていろと云う。何と目かくしをして、バーンバーンとこのタガネ切りを始めた。私共はあきれて見ているより外はない。
 
つまり腰を落とし、腰をすえることによって肩、腕、手の位置がピタリと決まるのである。今日、太鼓をたゝく人、三味線を引く人、日本舞踊などをテレビで見る機会が多いが、これら日本のものは、すべて腰を落とすようにして上体を決めている。森信三師流に云えばまさに「立腰」の妙。
 
年令からいって、あまり違わないこのプロにまけてもいられないと、腰を決め、さらに『指をを打っても構わないではないか』-と思い切って打ちつけると、タガネのまっ芯を打つので小気味よく鉄片が切れてゆく。こゝで「思いっきり」の大切さを、いくらか会得したようである。今日、お習字をし、人さまにも初心指導をさせて貰っているが、筆使いでもこのような払いには、思いっ切りが必要である。こうした拙い文でも、毎月書くとなると、思い切って書くというふうにしない限り続けることは出来ない。出来上りの良し悪しはあまり考えないことにしている。
 
誰かの言で『評価はひとさまがする』というのがあったが、この思いっ切り、というのは、今やっている、その瞬間々々に全心身を打ちこむということである。そこにはいく分かの「狂」が働らく。

その時に良し悪しを考えていては出来ない。もっともその事を起こす前には、かねてからの自巳研修、順備が充分につみ重ねられねばならないことは当然である。
 
こゝに二通りの生き方が出来てくるようである。出来上りを喜び集めるという成果本位と、製作中の打ちこみの自己燃焼という感動本位(過程本位)と。この後者にあっては成果は二次的であるから、次の打ちこみを求めるようになる。ゴッホの絵などがこの燃焼度の激烈さを示しているものと云えよう。こうして技術と熟練の世界をのぞき見たことは今ふりかえってみると、大きなプラスになってる。


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