2010-03-01から1ヶ月間の記事一覧

「在家者の修行」 (下)

「在家者の修行」(下) 修行又は修道は目的達成のための中心行動である。その行動が持続するためには、その準備と明確な目的が必要である。この三つワンセットを「戒・定・慧の三学」と云う。戒とは修道生活をしてゆく為の道徳規律である。最低五つ。「殺・…

おりじなる童話 おともだち ほしいの

吉永光治のおりじなる童話 おともだち ほしいの くみの うちは ひろい のはらの まんなかに いっけん ぽつんと たって いました。 おとうさんも おかあさんも おしごとにでかけて ゆうがたまで かえって きません。 いつも くみは ひとりぼっちです。 「とも…

「仏教真理とは人間のすじみち」 人間の原則−求道心

人間の原則−求道心人間の原理原則が実は知・信・行(理性と感情と行動)である。従って、釈尊が宗教的生活行動を起す上において、この三つがそろってくるのはまさに人間としての必然である。釈尊は人間であり、人間として真理を自己の上において実現し、それ…

三宝法典 第二部 第五六項 デーバダッタの悪逆

デーバダッタの悪逆 時にデーバダッタはアジャセ王に請うて三十一人の兵士を選び、初め一人をつかわして世尊を殺害せしめ、他の道より帰らしめんとせり。次に二人をつかわしてその一人を殺害せしめ、次に四人をつかわして先の二人を殺害せしめ、かくのごとく…

「在家者の修行」 (上)

「在家者の修行」(上) 在家信者と出家修行者との違いは、修行をするかしないかの違いと云ってよいかも知れない。原始仏教においてはその事がハッキリしている。その修行とされていたのは主として静思(ジェーナ=真理の瞑想)である。もっとも釈尊は三種の…

おりじなる童話 あめ

吉永光治のおりじなる童話 あめ ともこは ともだちの はるちゃんと のはらに はなを つみに いく やくそくをしました。 ともこが へやで ほんを よんでいると 「あらあら あめが ふりだしたわ」 おかあさんが あわてて せんたくものを とりこんで きました。…

三宝法典 第二部 第五五項 サンガの分裂

サンガの分裂 時に世尊、ラージャガハに托鉢せられしが、デーバダッタもまたその町に托鉢せり。世尊ははるかにかれを見たまいて立ち去らんとせられたり。アーナンダその理由を問いたてまつれば世尊は、 「デーバダッタを町に見るゆえに、われかれをさけんと…

「仏教真理とは人間のすじみち」 行→学習・体験・生活化・正導

行→学習・体験・生活化・正導釈尊による仏教を要約すると、真理を中心にしてこれを学習し、体験化し、生活化し、正導することである。このシステムというか基本原則をはっきりつかまない中に、自分はどうであるからとか、自分ならばどうするとかの批判や変革…

四段階の静思 (下)

「四段階の静思」(下) 釈尊仏教と称されるべき理由 原始仏教・部派仏教・後期仏教と歴史的に見ると、それが理論中心である事が分かる。だが宗教である以上は、その理論を通してどの様に人間形成がされ、宗教者としての人格的生活活動をするか、という事が…

おりじなる童話 ふしぎなおじさん

吉永光治のおりじなる童話 ふしぎなおじさん ともじは はらっぱで あせを とばしながら くさを かきわけて バッタを さがしいます。 「どうしてかな。いっぴきも つかまらないや」 かぜが とつぜん ともじの あしもとを ふきぬけて いきました。 かぜが はし…

「仏教真理とは人間のすじみち」 苦行から正行へ

「仏教真理とは人間のすじみち」 苦行から正行へ 釈尊は二人の仙人について精神統一を習い、その師らと同じ程度に熟達したが、その哲学においてもの足らなくなり、ついに小高い山に(前正覚山)登って、六年間の難行苦行に入る。それは実に徹底したもので、…

三宝法典 第二部 第五四項 デーバダッタと供養

デーバダッタと供養 時に世尊、正導の旅をなしたまい、ラージャガハに帰りて城外の竹林精舎にとどまりたまえり。これより先、雨久しく降らず、稲かれて食を乞うに難くなりたり。 すぐれしビクらは所々にて食を得たれど、デーバダッタは思うにまかせず、それ…

四段階の静思 (上)

「四段階の静思」 釈尊仏教の中核は八聖道、八聖道の中核は正見・正定 (正見は正しい考え方-正定は正しい成り切り) 原始仏教という云い方はかなり一般化してきている。それを聞いて異様に感じる人はむしろ少ない。だがこの名称には注釈が要る。 何故なら…

おりじなる童話 えんぴつ

吉永光治のおりじなる童話 えんぴつ おかあさんは ぼくが じを かいていると 「ほら また えんぴつを なめて。あんまり えんぴつを なめてると えんぴつに なるわよ」 「えんぴつなんか ぼく ならないもん」 おかあさんから いくらいわれても えんぴつを な…

原点は原型によって得られる

原点は原型によって得られる解脱(苦脱〜苦滅)という原点はいかにして得られるのであろうか。釈尊はさまざまな曲折を経て、この解脱を直覚なされた。しかし誰でも同じ様な求道過程をへるわけにはゆかない。そこで釈尊は、誰でもその解脱原点に到達出来る方…

三宝法典 第二部 第五三項 在家者の心統一

在家者の心統一 チッタ長者の友、カッサパなる裸形外道、マヨチカー山に来たりたれば、長者はかれを訪い、出家していく年なるやを問えり。 「出家して三十年になるなり」 「尊者よ、この三十年によりて、超人の法を得、すぐれたる聖智を開き、安らぎの心を得…

解脱後の自殺

『正善聖の人生』 体の病い心のゆがみを直して生き それは環境に振り回されない人生である 自分のペースでゆく正しい生き方である 自分なりの信条仕事観をもって生きる それはまさに輝かしい不惑の人生である 単なる幸福以上の善なる生き方である 納得がゆく…

おりじなる童話 こいのぼり

吉永光治のおりじなる童話 こいのぼり きょうは こどものひ。 ぼくは おとうさんと ゆうえんちに あそびにいく やくそくを していた。 でも あさに なったら おとうさん おしごとで あそびに いけなくなった。 「おとうさんの うそつき」 ぼくは おとうさん…

三宝法典 第二部 第五二項 チッタ長者とイシダッタ

チッタ長者とイシダッタ マッチカー山のチッタ長者はアンバータカの林に住むビクらをしばしば供養せり。ある日長者はビクらを招きて問えり。 「尊者らよ、世間に種々の見解あり。世間は変化せずあるいは変化す。限りありあるいは限りなし。如来は死後存在な…

釈尊仏教の原型

釈尊仏教の原型二千五百年前の釈尊が、歴史上の実在者として正導された、その仏教の原点は何か。仏教を知りたいと思う者がまず思うことは、あるいは最後に思うことは、その仏教の原点であろう。原点とは単なる初めのことではない。その事の煮つめに煮つめた…

真理法は病いにも有効

真理法は病いにも有効 二月十五日は釈尊が肉体的に亡くなられた日となっていて、ネハン会をとり行うお寺もある。八十歳になられた釈尊はその肉体の亡びに対して、心をすでに決められ、その機縁を待って居られたようである。ある信者のご供養食の中に毒キノコ…

おりじなる童話 うたう せんたくかあさん

吉永光治のおりじなる童話 うたう せんたくかあさん めを さますと おかあさんの うたが きこえてきた。 てんきが いいと おかあさんは うたを うたうんだ。 ぼくが おきると おかあさんが エプロ ンを かけて うたいながら せんたくを していた。 「おかあ…

お経は本来対話 対話は正導の必須手段

『彼岸』 年に二回のお彼岸がある かねての多忙を休んで墓参り 真実宗教への一歩と言うべきか この岸は患い多く 確たるものがない。 かの岸は真理真実が全現せられる世界 一人一人 がその 一端を担うぺき世界 釈尊と弟子たちは 大衆を正導せられた 毎日々々 …

三宝法典 第二部 第五一項 王子の三宝帰依

王子の三宝帰依 時に世尊、ビクらを伴いてバッガ国に入りたまえり。バッガ国のボディ王子は、新しき宮殿出来上りたる時なれば、落成式に世尊をお迎えしたてまつれり。 新しき木の香りなせる宮殿の階段に白き布敷きてあり。世尊しばしたたずみたまえば、ボデ…

仏教者の病いへの対所

仏教者の病いへの対所 病いと云ってもいろいろある。病菌によるものや、内臓器官の働き具合いや、食栄養次第、身体の使いすぎや、使わな過ぎ-それぞれは実際には複合しているから今日でも病気そのものは無くならない。これにさまざまな心因性が加わるのだが…

おりじなる童話 おかあさんがいっぱい

吉永光治のおりじなる童話 おかあさんがいっぱい ぼくが いえに かえると おかあさんが どなった。 「また わすれものして。となりの けんちゃんは わすれもの しないってよ」 ぼくは だまって へやに はいった。 「となりの けんちゃんの ことばかり いうん…

お経は本来対話

「お経は本来対話」 日本ではお経が読まれない日本人がクリスチャンを想像する時は、十字架像とバイブルである。仏教の場合は壮大なお寺か、お坊さんである。ほとんどの人がお経を自分で読んだことはない。日本に入ってきたお経は最初から漢文である。昔のお…

三宝法典 第二部 第五〇項 心の向上要領

心の向上要領 時に世尊、祇園精舎にてビクらに法を説きたまえり。 「ビクらよ、心の向上を修むるビクは、つねに五つのことを念ずべし。ある相、姿を思いて心にむさぼりと怒り、愚痴が生じたる時は、ただちにその相、姿より心を転じて、善き思いを伴う他の相…

釈尊仏教は中道門

「釈尊仏教は中道門」 「 中 道 」 もろもろの欲の楽のみ求むるは、いやしき凡夫のなすところ、まことの利益ともなわず。 いたずらに身を苦しむる行なすは、賢き人のせぬところ、まことの利益ともなわず。 如来は二辺に近づかず、中道 現に正覚す。眼を生じ…

ソーナビクの修行

ソーナビクの修行 ソーナビクはまじめで真剣なるが故に、極端なまでの精進修道をする。それは一種のあせりの様なものであったかも知れない。日本でもこの頃は、テレビで何とか行といった苦行めいたのが紹介される。そしてそれが何のためかというと、ご祈祷す…