2010-01-01から1ヶ月間の記事一覧

三宝 第153号「仏教は対話」

三宝 第153号「仏教は対話」 「仏教は対話」 田辺聖恵 原始経典(アーガマ経)を学んで特に気がつくことは、そのほとんどが対話だということだ。釈尊は弟子と対話し、信者と対話することで、正導をなされた。これは宗教、教育に限らず、人間関係の基本で…

ユ−スフル

『ユ−スフル』 あなたの人生 輝いていますね まるでステンドグラスのようだ 重さが少々感じられないようだが あなたの人生 飛んでいますね まるでスケ−トジャンプのようだ 着地が少々不安定なようだが あなたの人生 唄っていますね まるでテナ−歌手のようだ …

三宝法典 第一部 第75項 天使と相続法

天使と相続法 ブヅダ世尊、ミティラーのマハーデーバ林にとどまりたまい、時に微笑を現したまえり。尊者アーナンダは、 「いかなる因、いかなる縁ありて、世尊は微笑を現したまうや。如来はゆえなくして微笑したもうことなし。」と、合掌礼拝して問いたてま…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その三

先生の詩に「道に形態無し、心何ぞ拘泥あらん、達人は能く明らかにし了えて、渾て天地の勢に順ふ。」なる五絶があり、又勝海舟は先生が物に凝滞せずして機に臨み変に応じて物事を処理し、また人をして先生の意見を聞かしめた場合でも、其の答に、今日は斯う…

三宝 第152号  原点は原型によって得られる

原点は原型によって得られる 解脱(苦脱~苦滅)という原点はいかにして得られるのであろうか。釈尊はさまざまな曲折を経て、この解脱を直覚なされた。しかし誰でも同じ様な求道過程をへるわけにはゆかない。 そこで釈尊は、誰でもその解脱原点に到達出来る…

一日分の幸せ

『一日分の幸せ』 自分を表現出来る事は喜びである 演歌をまねて歌うのであろうと 手本をまねて習字するのであろうと 好みの植木を植えるのであろうと ちょっとハイクをするのであろうと コ−ヒ−を云々するのであろうと その人なりの表現をする事によって そ…

三宝法典 第一部 第74項 そしりの食事

そしりの食事 時に世尊、ラージャガハの竹林、リス養育所にとどまりたまえり。そしりバラモン・バーラドバージャは、先に尊者バーラドバージャがブッダ世尊のみもとに出家せるを聞きて喜ばず、怒りをいだきて世尊のみもとに参り、はげしき悪口をもってそしり…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  そのニ

先生はかくの如く勇進的開国論の大立物であったが、当初から開国論者であったかといふに、決してそうではなく、安政年間に入るまでは、激越な攘夷論者であった。 それで水戸の藤田東湖・会澤正志斎などと結託し、肥後勤王党とも交驪し宮部鼎蔵・永鳥三平等と…

三宝 第152号  「釈尊仏教の原型」

「釈尊仏教の原型」 田辺聖恵 二千五百年前の釈尊が、歴史上の実在者として正導された、その仏教の原点は何か。仏教を知りたいと思う者がまず思うことは、あるいは最後に思うことは、その仏教の原点であろう。 原点とは単なる初めのことではない。その事の煮…

自信をもって

『自信をもって』 生かされているという事実 自分だけが生きるのでない事実 すべてが関わり合っている事実 無数の事実が積み重ねられて その中心に私がいるのだから 私は私を信じねばならない 私には私に最適の道がある チェックポイントでチェック 自信をも…

三宝法典 第一部 第73項 四聖諦の解説

四聖諦の解説 時に世尊、ビクらをともないてベナレスにおもむき、ミガダーヤにとどまりて仰せられたり。 「ビクらよ、如来はこのミガダーヤにおいて、いまだかつて説かれたることなき、無上の法輪を転じられたり。そは四聖諦にして、明らかに説かれ、組立て…

横井小楠先生を偲びて   五 開国論と世界平和論  その一

五 開国論と世界平和論 小楠先生には名論卓説は沢山にあって、その多くは先生の語ったものや書いたものが纒まった文章となつているので、拙著「横井小楠遺稿」にも収録してあるが、掲題の二論は纏まった文章になっていないので「遺稿」にも漏れている。けれ…

三宝 第146号 先祖供養の実際

先祖供養の実際 仏壇は本来、信仰の対象としての仏け様、あるいは三宝を祭る場の事で、先祖は別に祭ったものであるが、先祖も仏け様の弟子になったという意味合いで一緒に祭るのも良いであろう。位牌は先祖の霊的なものの象徴であるが、仏け様(ご本尊)より…

慈心愛行

『慈心愛行』 自分本位はどっちみち抜けられない 他から愛されたいのも愛したいのも 自分を愛し満ち足りたいからだ 人は愛される事で愛するを覚える 愛するから愛されることも覚える 愛され過ぎると愛するを覚えない 己を慈しむ心 他を慈しむ心 己を愛する行…

三宝法典 第一部 第72項 和合の六法

和合の六法 時に世尊、コーサンビーのゴーシタ園にとどまりたまえり。その時コーサンビーのビクらは論争して、たがいに弁舌するどく攻撃し、和合に至らず。一人のビクは世尊のみもとに参りてこの次第を申し上げたれば、世尊は、 「ビクよ、わが名によりて、…

横井小楠先生を偲びて  四 小楠先生の全貌 (そのニ)

今までは先生の美点だけを述べたが、先生も人間である以上、多かれ少かれ欠点の持主でもあった。しかし、その欠点と云わるるのには恕すべきものが多いが、何としても弁護の余地のないのは酒癖であった。徳富蘆花が「興に乗っても呑み不興に乗っても飲みまし…

三宝 第146号 「親と子の道」

三宝 第146号 「親と子の道」 母父は五つの事をもって子より奉仕せらる。「よく育てられしわれは両親を養うべし。両親のために仕事をなすべし。家督を相続すべし。財の相続を正しくすべし。またもろもろの死者の霊位に対し、時に応じたる供養をなすべし。…

三宝法典 第一部 第71項 六方礼拝

六方礼拝 時に世尊、ラージャガハの竹林精舎にとどまりたまえり。城内の長者の子シンガーラは、早朝起き出で、郊外にて衣服と髪をぬらして清め、合掌して東西南北上下の六方を礼拝なすをつねとせり。 世尊、托鉢の中途、かれを見て仰せられたり。 「善男子よ…

各種人生

『各種人生』 修養的人生と創造的人生とがある 同じではないが一致する所がある 己に対し己に打ち込むという点で 勤勉的人生と惰性的人生とがある 同じではないが一致する所がある 仕事に対し己が抜け易いという点で 思索的人生と感性的人生とがある 同じで…

横井小楠先生を偲びて  四 小楠先生の全貌 (その一)

四 小楠先生の全貌 以上で朧げながら在りし日の小楠先生の公的生涯の片影を述べたのであるが、今少しく先生を見直して其の全貌を眺めて見よう。先生の風貌・気質・態度などについては、先生の高弟たる徳富淇水及び江口高廉の書いた「小楠先生小傅」に記して…

三宝 第154号 「信者と弟子の差異」

「信者と弟子の差異」 田辺聖恵 ここの神様は有難い神様だ、昔からよく信仰されている、といった意味合いのものを信仰と思っている場合が日本では多い。何だかよく分らないが、拝むと気持がいいといったのもある。ご利益があるそうだからお札を受けてきてや…

出来にくい時

『出来にくい時』 思うように出来ない時がある 意志が弱い時 圧力が強い時 工夫が足らない時 待つべき時 やたらに自分にハッパをかけて 焦りとなってもうまく出来ない やりさえすれば良いのでもない いつも自分に言い訳をしていると いつの間にか自分の性格…

三宝法典 第一部 第70項 サマーバティーの慈心

サーマーバティーの慈心 サーマーバティーはゴーシタ長者の養女となり、長者の信仰の因縁を受けて、後にウデーナ王の第一夫人となれり。マーガンディヤ・バラモンは、おのれの娘を第一夫人になさんとして、サーマーバテイーの琴の中に毒蛇を投げ入れさせて王…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十五)

先生は此度の召命の四年前から健康以前の如くなく、ことに入洛してからは病気勝ちで出勤することは少なかったが、至尊の恩寵や輔相始め一統の優遇と同情とに感激して病苦を忍びつつ至誠を尽くし職務に鞅掌していた。 先生の病気は腎臓及び尿路の結核らしく、…

三宝 第151号 「体得と信」

三宝 第151号 「体得と信」 田辺聖恵 釈尊の仏教は覚りの宗教である。覚りとは一切の苦を無くしてしまう事である。それを苦からの脱出、解脱とも言う。これはその様な人間状態になる、体験、体得の事である。しかもそれは自分自身でその体験を自覚出来るも…

感動人生

『感動人生』 もの事に新鮮に感動する 時には手を打って感嘆する 感動し得る自分に感動する それは生きていて良かった事 それは様々なご縁による事 それは正に生かされてきた事 人生にムダは無いと言われるが 一つ一つに感動が出来るとしたら その都度都度の…

三宝法典 第一部 第69項 覚りの示し

覚りの示し 世尊、ゴーシタ精舎に安居したもう時、ピンドーラは世尊にみずからの覚りを示さんとして申し上げたり。 「わが生はつき 解脱せり。われ清き行はたしたり。なすべきことはなし終えり。これ最後の生、この後にふたたび生を受くるなし。」と。 世尊…

横井小楠先生を偲びて 3 小楠先生の生涯 (その十四)

先生は以上の如くして此の僻遠なる小村に隠れて居ても先生の名は福井に招聘さるる以前から相当広く諸国に聞えて居り、其の招聘後特に江戸の檜舞台で活躍してからは、実に天下の横井であり、熊本でも亦実学党の首領として隠然大いに重きをなして居るので、時…

浄福 第74号 「人間のための 人間になる道」 理解が自己解決への道

理解が自己解決への道 苦というのは、感情的なものだが、仏教に於いては人間そのものを理解してゆくことによって、苦の存在という結論になる。知性でおし進め、考えぬいて表面的な喜びや快楽の人生が、実は苦であるという理解になる。しかしこのように人生が…

自己意識

『自己意識』 自分なりのダンスを幼児が踊る にっこり笑って自分で拍手 自分を認め自己意識を高める 人が単なる生物と違ってきたのは 自己意識に気付き始めたからだ 時に思い上がり 時に落ち込む この自己意識に一生付き合う この自己意識をいかに高めるか …