仏教による幸福への成功方式 #80(第十章ダンマ 仏心 最後のいましめ)

最後のいましめ

「鍛工の子であるチュンダの施食を食したまいし世尊は、毒茸にて重き赤痢の病にかかられ、赤き血をほとばしり出で死ぬほどの激しき痛みを受けられたり。世尊は正念して自覚し、なやまされずして苦痛を耐えたまえり。そして世尊は尊者アナンに告げられたもう『アナンよ、今よりクシナーラーにおもむこう』『かしこまりました世尊』と尊者アナンは世尊に答えられたり。こうして道を進まれた世尊は、お疲れになり一樹のかげにて、アナンに上衣を四重にして敷かしめて坐られ、渇くから水を運んでくるようにと言われました。 アナンはその先の川が、今五百の車が通りすぎたので水は濁っているはずだから、カクツター河まで辛抱して下さいと答えました。世尊は三度『アナンよ水を運んでくるように、渇いて水が飲みたい』と言われました。

アナンは鉢を取って川に行ってみると、濁り水は清く澄んでいるので驚いて、その水を汲んで世尊のもとに持ち来りて申し上げるのに『不思議なるかな世尊、如来の大神通力なるかな世尊、今かの川の水は少く車輪にかき乱され濁りて流れているはずなのに、私が行きました時は、清くして澄み濁らずして流れていました。世尊よ水をお飲み下さい。善逝よ水をお飲み下さい』とかくて世尊は水を飲まれました。
 
その時マツラー族出身のプツクサが通りかかって世尊が一樹の下に坐したまえるを見て、世尊のみもとにいたり礼拝して一方に坐し、申すには『不可思議なるかな世尊、実に世尊、出家がこのように心静かに居られるとは』。世尊は『アナンよ今夜半にクシナーラーのウパブッタナ林の沙羅双樹の間において、如来は涅槃に入るであろう。いざクツター河へまいろう』と告げられた。プツクサは光り輝く金色の一対の衣を持ち来り、それを着された世尊は、金色に輝かれました。
 
水清くして快く、よく澄んだカクツター河に近づかれた世尊は、疲れたご様子で浸りたまい沐浴し水を飲み、比丘衆の中にかこまれて川を出でられました。教主世尊はここで法を説き、マンゴー林に近づかれチユンダカ比丘に衣を四重にして敷くことを命ぜられて臥して休まれました。
 
このようにして幾度も休まれてやがて、ウパブッタナの沙羅双樹のもとにつかれるとアナンに命じて床を敷かせられ、正念と自覚をもたれつつ頭を北に向けて右脇を下にして、足の上に足を重ねて師子臥なされました。
 
その時沙羅双樹は、時ならざるに花が咲き満開となりました。そして如来の供養の為に如来の身体に散りかかり、又天のマンダラ華も虚空より落ちて如来の身体に散りかかり、天の楽の音が虚空から起きてきました。
 
悲しみで涙にくれるアナンをさとされて、世尊はマツラー族に入滅を告げさせられ、遊行僧スバツダに最後の法を説かれました。
 
『スバツダよ、いかなる法、戒律においても八正道の得られざる所には四果は得られず、我が法戒律においては八正道を得られる。ここにこそ四果あり、他の宗派には聖なる沙門 はない。スバツダよ、これら仏教の比丘らが正しく住するならば世間にアラカンがむなし いということはない。
 
バツダよ、我等二十九にして善を求めて出家しぬ。我出家してより正に五十有一年、正理正法の地を遊行せり、他の宗派に四果はない』
 
この教を受けスバツダは、今一人のアラカンとなり世尊の直弟子となった。     

『アナンよ、教主の言葉は終れり。我らに教主あることなしと思ってはならぬ。我が説 示し制定したる法と戒律は我が亡き後の汝等が師なり。アナンよもし望むならば我が亡き 後サンガは重要でない戒の一部を廃してよい』
 
『比丘らよ、一人でも仏陀、正法、正僧伽又は苦集滅道の四聖諦に対して疑いあらば質問せよ。後に悔いざる為に』このように三度び、うながし給えど比丘らは黙々としているのでアナンが皆に代り疑いなき旨をお答えすると『アナンよ、汝は信念より言う、されどアナンよ、如来にはこの比丘衆に一人にても三宝と道、行道について疑いなしとの実智がある。アナンよ五百比丘の最後の比丘も予流果を得、不退転となり決定して正覚に到達するものである』
 
『汝らは悲しみをいだいてはならぬ。たとえ我世に一劫の間留るとも、会う者は必らず離れねばならぬ。自ら利し人を利する法は皆、そろうている。たとえ我久しく留るともこの上異ることはないであろう。導かねばならぬものは神々、人間みな悉くすでに導いた。未だ導けぬ者はすでに導くべき因縁をなしてある。今より後、わが諸の弟子は互に伝えて之を行えば即ち如来法身が常に存在して滅しないことになる。
 
必ず知らねばならぬことは、世の無常なことである。智あるものは生老病死の苦海に沈むこの身体を捨てるのに喜ばぬものはない。
 
汝らは一心に勤めて、正覚を求め、智慧の光をもって諸の無明を滅し、生死の火の杭から離れるがよい。この世のすべてのものとなりゆきは、皆これ壊れるものである。
 
汝らはしばらく静まってくれ。もの言うてはならぬ。時が来た、我は滅度するであろう。これが我が最後の言葉である』
 
このように告げられて静かに初禅に入りたまい、二禅三禅四禅と進み、想受滅定に入り、下りて初禅に入られ再び二禅三禅と進み、第四禅に入られて直ちに入滅せられました。  

世尊の入滅したもう時、同時に大地震あり人々は恐怖して身の毛立ち、天の鼓は轟きわたりました。
 
翌早朝、アナンによって世尊の入滅を知らされたマツラー族の人々はアナンの指示の如く、世尊の身体を新しき布にて包み、五百重にして鉄の納棺に入れ、香木を薪として火葬しました。そして残りたる舎利は世尊を敬う種族にて八つに分配せられ各地に、仏舎利塔が立てられて永くまつられることになりました。


このようにして世尊は数人のお弟子に見送られるようにしてその身を捨てられました。三十五才にして人間から理想の仏陀となられてから四十五年間、特別の本部本山も持たず、特別のダン家、王の権力とも結びつかず、一切から自由となってすぐれた愛情、大慈悲をもたれ、あの暑いインドで旅から旅に四十五年間の遊行をなさる健康、何一つ持たずして全く不足を感ぜられぬ富を得られ、そして大智を完うして無限のいのちとなられたのです。
 
正善欲求によって人類は無限の求心運動をします。それはお先まっくらの原子爆弾におびえる話ではない。世尊は欲求が満足を求めるものであるから欲求が続く間は、満足も真の幸福もないこと。そして無欲求となって満足を知り(知足)幸福をつかみ、人類の目的を達成するという偉大な見本を示されました。
 
最大の正善欲求は実は無欲なのです。こんこんとつきることのない無限の無欲なのです。
 
人類の文化は物質面からようやく精神面の開発へとふりむけられようとしています。共産主義自由主義の争いは、宗教主義と無宗教主義に変えられて当分の争いとなり、遂に無宗教主義の敗北となってこの世の浄土化が一段と促進されるでしょう。そうした政治から宗教への切り替えは今後三百年待たねばなりますまい。それまで精神主義的に生きることはますます困難となるはず。その為に東洋人はこの無上の仏陀の道を現代の叡智によって再確認し行じ各人が、世界の光の基とならねばなりません。

このようにして世尊は数人のお弟子に見送られるようにしてその身を捨てられました。三十五才にして人間から理想の仏陀となられてから四十五年間、特別の本部本山も持たず、特別のダン家、王の権力とも結びつかず、一切から自由となってすぐれた愛情、大慈悲をもたれ、あの暑いインドで旅から旅に四十五年間の遊行をなさる健康、何一つ持たずして全く不足を感ぜられぬ富を得られ、そして大智を完うして無限のいのちとなられたのです。
 
正善欲求によって人類は無限の求心運動をします。それはお先まっくらの原子爆弾におびえる話ではない。世尊は欲求が満足を求めるものであるから欲求が続く間は、満足も真の幸福もないこと。そして無欲求となって満足を知り(知足)幸福をつかみ、人類の目的を達成するという偉大な見本を示されました。
 
最大の正善欲求は実は無欲なのです。こんこんとつきることのない無限の無欲なのです。
 
人類の文化は物質面からようやく精神面の開発へとふりむけられようとしています。共産主義自由主義の争いは、宗教主義と無宗教主義に変えられて当分の争いとなり、遂に無宗教主義の敗北となってこの世の浄土化が一段と促進されるでしょう。そうした政治から宗教への切り替えは今後三百年待たねばなりますまい。それまで精神主義的に生きることはますます困難となるはず。その為に東洋人はこの無上の仏陀の道を現代の叡智によって再確認し行じ各人が、世界の光の基とならねばなりません。


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