「三宝」71号 五つの幸福原理 #6(根本真理 一)

Ⅴ、根本真理(一)

 人間一般は何を求めているのであろうか。他の人はともかく、自分は一体何を求めるのであろうか。このように疑問を持つようになって初めて、人間として成長してきたと云えます。うまいものを腹一杯食べ、遊んで暮らし、しのびよる死の影におびえて逃げまわろうとするのでは、人間のねうちとは云えません。

 こうして人間は次第に成長して、人間はいかに生きるべきかという問いを持つようになります。釈尊はこれに答えるために、三宝人間学を残されました。それは過去の考え方ではなく、現代にこそ最も必要絶対な最高の人間完成の道です。

 仏教は人間の知的、感情的疑問、迷い、苦しみの一切を解決してくれるものです。しかもそれは云わく云いがたしといったむずかしいことではなく、すじ道を通して誰にでも分かり、かつ実行出来るものです。なぜならば真理というすじ道を中心にしてあるからです。そこで人生の真理をここでは学習してみましょう。

 真理と云っても、人によってはいろいろな立て方をしますが、釈尊は人間の苦をなくし、人間として完成するという明確な目的をもって立てられました。そのために釈尊は人生と世界を徹底的にみつめられました。人生とはどうなっているのか(現状認識)、なぜそうなったのか(原因分析)、どうなるべきか(目的確立)、どうすべきか(実行方法)、と。

 根本の真理は一つです。すべて変化するという縁起の法則です。人間の肉体も心も永久不変のものはありません。つねに変わってゆきます。生まれてきて、しばらくは若々しく栄えて住んでいますが、やがて老化し異なった姿になり、やがて死んで滅んでしまいます。これが生住異滅です。これは悲しいはかないことですが、事実です。

 人間の肉体はいろいろな物質的要素が集まって出来ています。しかも心があります。それは万能の力を持った神様によって、計画的に作られたといったことではありません。物的要素が因としてあり、それらをよび集めるような欲求の心の因があり、互いに因となり縁となりして、人間という結果になってきたわけです。因と縁によって生まれてきた人間は、その因と縁が分解すれば、人間と云われる前のものになってしまいます。

 このように常に変化してゆく過程にあるのが人間ですから、永久に人間であるというこ とは出来ません。それは仮の姿であり、その.ままでは一ケの動物にすぎないので、別に価 値のある存在とは云えません。それは他のものや、植物動物と同じ自然現象の一つにすぎ ません。この世の中は冷静に観察してみると、決して自分に都合よくできているのでもなく、太陽が人間にだけ照っているのでもないことが分かります。
このように人間をはじめ自然のすべてがいかに存在し、どのように現象として現れているかということをはっきりすじ道としてつかまえたのが自然真理です。それは次々と変化 し、とどまることのない流れゆくさまなので流転縁起(るてんえんぎ)と云います。これは感情をまじえずに素直に自然をみた場合の正しい考え方です。いわば科学の目でみたこ とです。人間はまずこのように、自然や人間、自分というものを事実として、ありのままに見るという練習をせねばなりません。病気を治す時でも、心からきているのか、食物のかたよりからか、身体の使いすぎか、事実をつきとめることから始めねばならないのと同じです。

 事実を知ることは、必ず目的を持っています。人間の事実を知ることが、人間の幸福覚り救われという目的につながります。その人間の目的を単なる欲望の満足とせず、最高のものとするそれは価値です。その価値ある目的にゆきつくためのすじ道を明らかにすることを価値真理と云います。
人間の幸福というものは、経済的な安定、広い人間愛、豊かな教養といったものを土台とし、真理を体験し、みずから真理に合致した生活を実現してゆくことです。

 そのためには自然や人間のすじ道を知り、人間の正しくない欲望に支配されていることを認めなければなりません、そしてその結果が、苦しみ不幸となっているわけです。その本能的なはげしい欲望は、結局、人間とは何かということを知らない無知、愚かさから生じてきます。人間は、ああなりたいこうなりたいという欲求心をもっている、それが本質です。それがまわりの環境条件(縁)と組合わさって、人間となり、あまりかんばしくない生き方をする表現となります。この欲求心という本質は、向上もし向下堕落もする方向をもっているので、善いとも悪いとも云われません。それがよい縁によって、善い人間と表現してくれば、善い性質だったと云えます。悪い表現、つまり悪いことばかりするする人間となれば、善い性質とも云えません。そこで人間はもともと善の本質だと決めてかかると、表現している現実の人間か善でなければ、矛盾と感じ、どうしていいか分からず、人間は不可解であるとノイローゼになってしまいます。

 そこで縁という環境をととのえ、本質を善を欲求するようにしむければ、結果は善となってきます。これは因(本質)、縁(環境・条件)、果(表現)という三つの関係が明らかな事実として分かれば、それらの一つ一つを善にかえることによって、本質と表現を一体化し、善にすることが出来ます。つまり人間として最高度のものとなり、人間完成をするわけで、これが本当の幸福です。このように自然真理を応用して、人間の価値を作りあげる価値真理(還滅縁起)は、本当の尊いものです。合掌すべきものです。しかもそれらは、自然真理と裏表なので別々のことではありません。

 この二つの真理を合したのが根本真理です。自然を知り、その自然の中に価値を創造してゆくことが、一つの真理によって同時に出来るということは何と素晴らしいことではありませんか。これが仏教であり、幸福と繁栄を生み出すものです。

 このように真理を知るという理性を活用して、人間の欲求をつねに正しく善なる方向にリードしてゆくことが出来るということは、誰でもが学習できる、習いさえすれば誰でも幸福になれるのだという点で、容易であり、万人にむくという点で本当にありがたいことです。


http://d.hatena.ne.jp/nazobijyo/ ←悟れる美女の白血病闘病記 投票用バナーではありません。 ブログのアドレス(URL)です。