自著を語る わたしにとって男の理想像  『無双の花』(葉室麟 著)

わたしにとって男の理想像
『無双の花』(葉室麟 著)
葉室 麟Rin Hamuro|作家

立花宗茂を知ったのは、20代のころ海音寺潮五郎の『武将列伝』を読んでからだ。地元、福岡の武将と知り、親近感を抱いた。

 九州に出陣した豊臣秀吉は、大友宗麟に属して島津氏の猛攻に耐えて反撃した宗茂を「西国無双」と讃え、後の小田原攻めの際には大名たちの前で徳川家康の家臣、本多平八郎忠勝と並べて称讃した。

 それほどの武将が地元にいたのだ、と嬉しかった。宗茂の居城があった柳川は自宅がある久留米市から車で30分ほどの距離で、宗茂の岳父である戸次道雪(べっきどうせつ)が最後の陣を張った後国の一の宮が鎮座する高良山(こうらさん)は、日々、眺めて英気をいただいている。

 戦国武将の中でも宗茂は縁が深い隣人のような気がしていたから、いつか書いてみたいとの思いは常にあった。ところが、実際に宗茂について書くことが決まった時、頭を抱えてしまった。わたしが書きたいのは戦国武将としてのはなやかな活躍ではなく、関ヶ原の戦で敗れ、浪人して苦しい日々を送った末に大名に返り咲いた宗茂だったからだ。困難に負けず、くじけず、自分を見失わなかった宗茂は、生き方の軸をぶれさせなかった。わたしにとって男の理想像だ。しかし、読者にそれがうまく伝わるだろうかと気になった。

 戦国時代を描いた小説で求められる主人公は、天下取りを狙う勝ち組の武将であることが多い。

宗茂は、大友家に属して節を曲げることなく戦い抜いた道雪と、島津勢に徹底抗戦して玉砕した実父の高橋紹運(たかはしじょううん)というふたりの父を持っている。

 戦国武将として言わばサラブレッドであり、しかも、朝鮮出兵の際に寡兵で大軍を打ち破り、「西国無双」と呼ばれるにふさわしい武功をあげた。天下人秀吉の眼鏡にかなった英雄的な武将だった。しかし、関ヶ原の合戦で西軍に属してから人生は一転する。

 敗軍の将として改易された宗茂は、領地を失い、30代の大半を浪々の身で送った。徳川家に仕官がかなった後、壮年期を小大名として過ごし、関ヶ原合戦から20年たってようやく筑後柳川に再封された時には50歳を越えていた。

 現代で言えば大企業で活躍していた若きエリートが突如、リストラされ、仕事や収入の無い日々を送り、かろうじて別の大企業に再就職できたものの、ふさわしい処遇をされることもなく、50代になってようやく相応の地位に落ち着けたという話になるのかもしれない。しかし、もし、この転落したエリートが自らを信じて揺るぎなく生きたとしたら、魅力的ではないだろうか。

 わたしは、そんな宗茂を描いてみたいと思った。

  普通の人の感覚を失わなかった素直なひと
 
 『無双の花』をオール讀物で連載するにあたり、柳川の立花家史料館史料室をお訪ねして植野かおり室長にさまざまおうかがいした。

 立花家の歴史に精通しておられる植野室長のお話でわかったのは、宗茂が「普通の人の感覚を失わなかった素直なひと」であったということだ。

 流浪する宗茂に旧家臣たちが付き従い、主人の暮らしを立てるために虚無僧などに身をやつして、ともに辛苦の日々を送った。ある日、稼ぎに出かけている間に雨が降り出し、庭に干していた〈干し飯〉が濡れてしまうのを家臣たちは心配する。

 家臣のひとりが「殿が気づいて濡れぬようにしてくだされておるであろうか」と漏らすと、「いや、さようなことに気づかれるようでは、殿は浪人のまま一生を終わり、大名に戻られることはないぞ」と口を挟む者がいた。

 家に戻ってみると、はたして宗茂は干し飯が雨に濡れるのにも気づかない様子で書見をしていた。家臣たちはほっとして涙を流したという。宗茂の浪々時代のエピソードにはひとの心の温もりが感じられる。

 弱肉強食の戦国時代に不遇をかこちながら、ひとを恨まず、妬まず、自分の生き方を貫けるというのはかなり稀なことだと思える。

宗茂は、ひとの記憶に残る鮮やかな生き方をした真田幸村伊達政宗と同じ年の生まれだという。ともに優れた武将であるが、九度山で永年、幽閉生活を送り、大坂の陣で花と散った幸村や、野心横溢(おういつ)して徳川幕府から常に警戒の目で見られた政宗に比べ、宗茂は淡々とした生き様を見せた。実直な心構えで生き、しかも運命を切り開いて、浪々の身の上から大名に返り咲くという離れ業をやってのけた。

 真面目に自分の人生と向き合った者が報われるという「奇跡」が宗茂の生涯にはあった。数多(あまた)いる戦国武将の中でも現代人がかくありたいと願うのは、宗茂なのではないか。その生き方こそが、宗茂の咲かせた「無双の花」だったと思う。

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