「真理法の宗教」 ニバーナ
『ニバーナ』
『ニバーナ』とは、ネハン−覚り、真理の完全なる認識体験。
慧解脱−真理を知り(理性の満足→安定)
一組がニバーナ
心解説−心が安らぐ(感情の訓練→安定)
この理性・感情二つが満足しないと仏教の覚りとは云えない。従来理性面が充分に説かれなかったのは、やはり時代性であろう。この『ニバーナ』こそ仏教徒の最終目的で、そのあとは理想である。
『識者』とは人生を真面目に考える人ととるべきであろう。真理を求める心を持つ人が知識者、そしてすでにそれを得た人を善知識(者)という。師と名のつく者はこのように、真理を学習し、体験し、生活化し、それを正導する人でなければならない。
このように釈尊(世尊と呼ぶのは世に尊ばれる方という意昧)によって説かれた真理中心の仏教(中道門)は、ある程度の常識水準がないことには、受け入れにくいかも知れない。
それがインドで仏教がなくなり、信仰中心のヒンズー教にもどってしまった理由であろう。今日の日本は、生活や文化の豊かさをすでに得ているので、人間とは何か、その本質と価値とは何か−ということを知らねば、もうどうにもならないところに来ていると見抜かねばならぬ時であろう。
今後、百年、二百年かけて、真の仏教の真理性が、識者の中に浸透し、こんなものであったかという、驚きと喜びをもって受け入れられてゆくであろう。いわば二十四世紀を目指す宗教だと私は思う。そしてその準備を直ちに始めねばならない。
このような真理性と導きによる覚り、救われの獲得が可能であるということが、アミダ仏の本願、大日如来の即身成仏観などとなってゆくので、そうした理解と信仰は、まず、原始仏教としてのブッダ観、真理観を土台にしないと、単なる物語りのように受けとられやすいことを案じるのである。
今日の旧仏教のゆきづまりは、このように原始仏教、釈尊への直説に還帰することによって、再び開道するであろう。一部にそれは始まってもいる。中道門はますます明確にされねばならない。
(浄福 第40号 1976年12月1日刊) 田辺聖恵