田辺聖恵 の検索結果:
…悟る−真理に進む。 信−釈尊によって開かれた真理があり、釈尊はすでにその真理を悟られたという事実を信じ、師に従って学習修行すれば体験出来ると信じる。疑わない。心がそのことだけになる。 行−心の動き、目的を持つことも行の始まり。真理とその真理を中心にした生活法を「学習」する。静思して、真理を「追体験」する・体得の分に応じた「生活化」をする。自己を通してその真理とその生活法を他に「正導」する。 (浄福 第73号 1979年10月1日刊 ) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…されていたのだから。まさにいい気なものである。この時分に日本仏教の文化性文人性が形成されていったようだが、学者は研究しない。 鎌倉時代になって時代の要請として、いや庶民の要請として仏教の一部が大衆に門戸を開くようになる。だが徳川時代になると寺社は権力の下部組織となり、上意下達の政治方式、封建的本山制度でがっちり信者は支配されていたと云えよう。 (三宝 第160号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…在理由、存在目的が明らかになり、それらの体得了解によって一切の苦悩が断滅せられるという事である。第四には、その様な自己実現が出来る法は八つと、定型として教えられる。これを実習実行すれば、例外なく解脱という目的に到達する事が出来る。以上の様に整然と構成されたものは型というにふさわしい。釈尊の仏教は解脱原点を求める所の達成原型を明らかにしたものである。何百年も日本では明らかにされてこなかったが、この後百年もすれば多くの人が知るものとなるであろう。 (三宝 第152号 ) 田辺聖恵
…という積極的生き方をもって自殺という手段を選んだ。生きておれる私どもが、どれほど積極的に、真理的に生きているだろうか。いやおうなしに、生と死を考えさせてくれる、まさに貴重な体現的仏教の経典である。(三宝聖典 第二部 第47項 バッカリの捨身 http://blogs.yahoo.co.jp/mitousanjin/10611259.html) (三宝 第156号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…感情の落ち着きから知解へ進むか、知解から感情安定に進むか、人によってどちらが先になるか違うのが当然だが、いずれにしてもこの理知性と感情性の両方が満たされ安定した時が、真の解脱と言われるものである。単にお任せといった自我放棄などではない。それでは人間の根源にある、本当の事を知りたいという正善欲求が満たされず、それではどこかに霧がかかった様な所を残すことになる。解脱や悟るという事はそのアイマイさをなくすことなのだ。 (三宝 第152号 ) 田辺聖恵 ブログランキング まじめな話題
…活動、働きをするようになる。釈尊はその法を聞かれ、思念し、喜び、病いを直された。たとえどの様な病気であろうと、あわてふためいて医薬にとりすがるといった事でなく、心の在り方の真理法に向ける事を優先されたのである。人間の病いに対する仏教者の在り方を厳然と教えさとされていると、受け取るべきではなかろうか。宗教と医療の分離の功罪を考える時に来ている。 (三宝 第136号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…。ここに師弟交流、対話正導の実態がある。この内容はすでに了解徹底した直弟子へのものである。信者や非信者へのものではない。従ってわれわれ信者にとっては不可能な事だなどと思うのはあやまりである。釈尊は弟子と信者に対しては当然ながら、差違をもって正導せられた。対機説法とはその事である。同じ内容を変えて話された事もあるが、違う段階を違う様に話すのが真の対機説法である。プンナ尊者は、宗教者としての最善を尽くして自己を全うした。何と素晴らしい事ではないか。 (三宝 第143号) 田辺聖恵
…ふれ喜びに生きておられる人もある。肉体は頑健なのに、思うようにならないからと云う事で放火をしたり、殺人あるいは自殺という事も決して珍しい事ではない。健康精神だから宗教を求めるのか、何らかのユガミがあるからこそ宗教を求めるのか。 今日こそ、こうした点からの問いに、宗教は自問自答せねば宗教趣味の一種に堕してしまうであろう。すでに半堕かも知れない。 (三宝 第136号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…いる。こうして原典軽視が無意識的にあるから大衆化などは在り得ないのである。仏教が日本に入って千三百年たって、こうだという事は今後何百年たっても同じだと考えざるを得ない。日本でお経が読まれないという意味は、漢文まがいで読む事不可能という事、読んでもしょうがないと云う事、従って読む習慣がないという事の三点を意味する。さてこれは後期仏典の事である。ところが、この百年間に、日本にも原始経典が細々ながら入ってきた。較べれば、ともかくその違いが歴然とする。 (三宝 第143号) 田辺聖恵
…自己実現の生き方であるとしたら、説者自身が、その原理の実行によってどうなったかという体験実証が無ければならない。 私のような凡者はそれに二十年もかかったという事かも知れない。 山にも寺にもこもらず、原始仏教だけで生活するという事は、実に難しい。だが曲りなりにも出来てきてみれば、これからの後続を考える人にも可能性があると言えよう。 さて、この中道であるが、それは単にまん中、ほどほどにといった処世術ではない。仏教真理に合致した正しい生活道が釈尊仏教。 (三宝 158号) 田辺聖恵
…道者とは我欲の身を、真理全現のために施し、供養することである。信者はこの修道者に尊敬供養をして支持することである。この二者の相関互恵は、仏教真理の実行実現である。 それは極端や独善を排した中道の仏教である。法供養と財供養の欠けた観念哲学は、真の宗教にはならない。信者において財供養が真理実行である事は、何びとでも直ちに行えるし、反省点にもなる。 (三宝 第158号) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…のみ=五戒)盗みをしたまゝで坐り始めても、心の動揺の納めようがない。已の悪に気づいた度に、サン悔し、その処置を尽す決意を述べかつ行動をせねばならない。已を偽って已に真実が入りこんでくる、あるいは救いとられると思うのは、全く自分の思いこみにすぎないので、ムダというより外はない。この五つを学習して已の悪が実感として分らせて貰えるのである。こうして心身の環境が整えられて始めて坐る順序を学習する段階となる。已に已が問わねばならない。 (浄福 第32号 1976年4月1日刊) 田辺聖恵
…ないことには、真の学は発生しない。危機に対応し、打解する活力がなければ、それは学の名に値いしない。幸福論も構成し易い。また徹底論も論じ易い。しかしこの二者を確な太いパイプでつなぎ、その人においてポイントを自由にスライドさせる生き方学、そのような変容性をもつものは、学とはなり難い。『生き方』の必要性と難しさがそこにある。 (全現 第167号 1982年11月8日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…ることである。そして、更によき仏教徒として、み仏けであり、偉大なる師であるみ仏けの期待に答えたいという心がわいてくるならば、同一化への営みとなる。恋愛というものは、同一化や同情さらに献身となるものである。ましてや、宗教的尊崇は、それ以上の同一化や献身がなされるのが当然である。少くとも献身・奉仕・礼拝(已の一切を施す)ということが無いならば師や法を已に引き寄せ、取捨選択し、器用に利用するにすぎない。「拝して仏となる」ではある。 (浄福 第32号 1976年4月1日刊) 田辺聖恵
…ば迷実ともなりかねないから、真理・真虚への立返えりが常時なされていなければならない。そしてそれは、静坐静思・腰骨立てによってなされねばならない。 真虚が確立している時に、真実はより輝やきを増し、類は類を呼んで、他へと必らず波及するものである。真実は真虚に収納されて、また新たなる活力をもつ。こゝに真実の無限可働性がある。 (全現 第167号 1982年11月8日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…に人生観を教え(信による)その確信の度を伝え(信による)行為による手本を示す、と同時に体験化をさせる(行による)ものであるから、信者も弟子も共に受け入れやすいものである。まず知によって、理解し、直ち にそれを己の人生問題や環境に応用することが出来る。 つまり定規の使い方を教えて貰えば、誰でもその定規を使うことが出来るというのと同じである。その都度、己で考えねばならぬというのではない。人生観とは、ものの考え方、法、真理=基準。 (浄福 第32号 1976年4月1日刊) 田辺聖恵
…ど説かれていないから、神と仏けをチャンポンにして、それが日本化のすぐれた面だなどと思ってきたのだから、今日通用し難くなるのは、むしろ当然と云うべきであろう。 仏教とは、生きているこの事実具体から、そのすじ道・真理を抽象し、一切の具体を捨象した究極・虚に達し、そこから出て、現実をすじ道に合致させる実行動をするものである。 (全現 第167号 1982年11月8日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…性と導きによる覚り、救われの獲得が可能であるということが、アミダ仏の本願、大日如来の即身成仏観などとなってゆくので、そうした理解と信仰は、まず、原始仏教としてのブッダ観、真理観を土台にしないと、単なる物語りのように受けとられやすいことを案じるのである。今日の旧仏教のゆきづまりは、このように原始仏教、釈尊への直説に還帰することによって、再び開道するであろう。一部にそれは始まってもいる。中道門はますます明確にされねばならない。 (浄福 第40号 1976年12月1日刊) 田辺聖恵
…るから、豊かであれば宗教は要らないとし、貧しければ社会福祉を求めるということで、共に宗教の方へ心は向かない。であれば、経済を問題にしない、より純粋な宗教と、管理的生き方学と、弱凡なる生き方学、このような三通りの特性をもつ人間学が明確になつてこなければならないだろう。つまり『第三の学―弱凡の生き方』が登場せねばならない。 (全現 第167号 1982年11月8日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…かれ』たものと云えよう。正見とは正しい見解、考えである。思想、人間観と云ってもよい。『仮りならず』とは、ある時代、ある場所だけに通用するといった狭いものではないということ。つまり現代まさにぴったりのもの。決して一時的のものではない。普遍性があるということ。『来りて見よ』とは、自らの目で確める、目で見るように、はっきりするということ。来りて、こゝを、自らの意志で、強制でなく、自らを動かしてと読み取るとさらに味わいが深くなる。 (浄福 第40号 1976年12月1日刊) 田辺聖恵
…今日風に云えばシラケである。従って私は今の若者たちの、無気力というか、やる気のなさ-というものが、かなりよく分るのである。なにしろ十年近く、そうした情況をさまよっていたのだから。だが今の若者と根本的な違いは、何かを求めようとする-というよりも、人生とは何かを知り、かつ納得したいという欲求が優先していた-という点である。 (全現 第167号 1982年11月8日刊) 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…まり奉仕性が導入されない限り、日本的民主主義は醸成されない。 「変化・互恵」これは仏教の縁起法という真理内容の云い方を現代風にしたもので、これはまさに、いつの世でも、どこの場所・国にでも通用するものである。だから真理と云われる。 仏教がこの真理を中心にするものであるということが、全んど強調されず、人格的な仏けのお救いの慈悲心だけを説くのでは、そこにまでゆきつく説明が略されるので、いわゆる理解をしようとする者には不向きとなる。(浄福 第40号 1976年12月1日刊) 田辺聖恵
… -自伝的仏教論- 田辺聖恵 『仕事と生き方』 仕事から生き方へ 敗戦後、転々と仕事を変えてみるが、どれも好んでやることではないから熱も入らず、収入にもならない。とうとうゆきづまって、信仰の世界に文字通りとびこみ、半年して、米駐留軍で試験を受けたらその場採用、通訳になる。これも何しろ、中三までの英語それに中三の時、一年間米人の英語学校夜学にいっただけ-だからまともに通訳できるわけがない。しかし何とか辞めたいのをガマンして、八年間勤める。今でも時々、無届けで休んでいて、クビにな…
…に限らず、植物ですら、積極的に、努力していることを知らねばならない。 民主主義とは、このようにお互いが恵みあい、奉仕しあうという真理を土台にしているものでなければならない。自己の権利を土台にすれば、自然の理に反するから、欲望本位 となり、敵対関係となる。世界中の国が皆、民主国と称していて、力のバランスで動いているのをみると、民主主義理論が、仏教の真理を導入しない限り、本物とならないことが分る。 (浄福 第40号 1976年12月1日刊) 田辺聖恵にほんブログ村 ブログセンター
… -自伝的仏教論- 田辺聖恵 『仕事と生き方』 仕事の工夫 製図その他の一ヶ月の訓練が終ると職場配属がされ、私は商業学校中退であるので人事係に廻わされる。それから毎日、工員の給与計算。一人で三四百人を受け持ち。毎月名簿を作り、それに毎日の勤務時間を記入し、日給金額と時間数を掛け合わせて個人個人の合計を出し、総員の合計金額を出す。そして会計部の計算と電話でつき合わせるのであるが、これがなかなか合わない。どちらかが間違っているのだから、合うまで徹底してお互いに計算をやり直す。 し…
…。そして、真理よりも身近な幸せを望むのであれば、そのように正直にならねばならない。自己を偽っては仏教の学習などおぼつかない。真理は学習によって、教われは徹した信仰によって、ただし幸せの満足は善の施、奉仕によってと二つを明白に導かれるのが、正しい仏けさまである。みそもくそもいっしょくたの信仰から、まず基礎から分ってゆく正しい仏教の道を進んでゆきたいものである。この次が、真理とはどんものかという説明となる。 (「浄福」第39号 1976年11月1日刊 ) 田辺聖恵 ブログセンター
… -自伝的仏教論- 田辺聖恵 『仕事と生き方』 「思いつきり」の打ちこみ 加古川市の教育長浜田満先生は季刊誌『香芹』を出して居られる。その第三十一号は公務員への講演内容であるが、驚いたことに「先見性」を強調して居られる。 『行政マンといえども、時代の動きを正確にキャッチして更に 先見性を持って、事に当る知性と能力、創造性といったものを持たぬとついて行けない。現に市長がいわれる事務屋とか、石頭と かいわれるのはそのことだと思う。柔軟な知性、創造性、先見性といったものを養わぬとそ…
…」 「仏教の基本」 田辺聖恵 信仰と宗教 信仰と宗教の違いが、まずはっきり分らねばならない。信仰とは、何か偉大なものを信じ仰ぐということである。それは、その偉大なものへの崇敬であったり、感謝であったり、信頼であったりする。宗教とは、人間にとって最も大切な教えということである。宗とはムネ、胸、人間にとって肝要なところということであり、教えとは、教えられて分るもの−ということである。教えは、必ずしも、コトバを通さねばならぬというわけではないが、出来るだけコトバを通し、そのあとは態…
…である。 もしこの様な話をまともに聞いたら、まさに息苦しくなるに違いない。私たちは、もう読み物を通してしか釈尊を聞くことが出来ない。真の継承者を見る事は不可能に近いからだ。釈尊は言葉を尽くせ、と言われる。確かに仏教は口説にとどまるものでなく、体験すべきものである。だが、仏教の口説人口を増やさない限り、体験者の登場など望むべきもない、という事になりはしないだろうか。 田辺聖恵 https://blog.with2.net/link.php?958983"/人気ブログランキングへ
…させる [活かし生かされ]− 人は誰でもボンヤリ生きるよりはより積極的に生きる事を好む。そこに喜びがあり、人は無条件に喜びを求める存在だからだ。その積極的に生きる事というものは自分の取り柄を活かす事によってなされる。 『人間は文化化しているが生かされの上である』 自分の取り柄を活かしていると、それも生かされている上での事と気付かされる。この生かされ意識は自己の無意味化から救ってくれる。こうして自己を活かす人は、有意義文化の系列にあって、誇りと喜びに生きる事が出来る。 田辺聖恵