仏宝とは何か

   仏宝とは何か                             
仏陀世尊(おシャカ様)が何故宝であるか、それにはまず、仏陀とはどういう内容か、ということを知らねばならない。釈尊は(釈尊とはシヤカ族出身の世の中で最も尊い方−シヤカムニ世尊の略、ムニとは聖なる沈黙を持つ方)ご自分で、ブッダの内容、いわば肩書きを十ならべられる。いきなり、仏けとは永遠の生命とか、すべてを救うといった、カツコいいことは云われない。

第一が如来−如とは、真如、つまり真理のことである。来とは来る、つまりブッダとは真理の世界から来た人、真理を体得してきた人という意味。真理が完全に分った人ということである。

第二の応供とは、怒り、欲(貪り)愚ちの三毒煩悩をなくしてしまったから、供養に応ずる資格がある方という意味。自らの為に、地位や名誉、喜びのためなどで生きようとはなさらぬから、こちらから、喰べる物をさし上げて、どうぞ喰べて下さい、そして肉体を維持して私共に法の導きをして下さいとお願いすべき人である。肉体がない方なら喰べ物をあげる必要もないが、口を通して法を正導して下さることもない。すると、こちらが勝手に、仏けとはこうであると、お告げみたいに自己流の感得をして、それを吹聴することになる。それははなばなしいようだが、その人の人生観の範囲内のことが多い。

正等覚者−第三は、自然界とくに人間とは何かを、正しく、そのまゝに知りつくされた方という意味。この三つを如来の三号とも云い、代表的な仏けの説明、あるいは規定である。

真理から来られたのは、自分が真理を悟ったので、それをそのままに、人々に教え導こうと思ってやって来たということ、つまり「導く」ということ、応供とは、自已に関しては、真理を知りつくしたから、自己中心の生き方は一切しない、供養を受けて肉体を維持し、人々に導きをする方ということ。正等覚者とは、真理を正しく知った方という意味。この三つとも真理を完全に知るということが中心にあり、そして人間の世界に肉体をもって入りこんでこられ、人々を正導教化する方であるということが分かる。つまり理想的な教育活動に全生涯をかけられた理想者なのである。

次は四、明行足−明とは、知恵のこと、行とは真理を体得する修道と、人々を正導する慈悲の行為のこと、この知恵(大智)と慈悲(大悲)の二つが満足、足りそろっている方。
五、善逝(ぜんぜい)−善く(正しく)真理の世界にゆかれる方。
六、世間解−世間のこと、人々のことをよく分っておられる方。でないと人々を正導することは出来ない。導く方という意味である。
七、無上士−この上もない立派な方。それは真理を知り、それを正導される人だから。
八、調御丈夫−馬を訓練する調御士のように、人々をよく訓練なさる立派な方(丈夫とは立派な男)これも導くということ。
九、天人師−天とは神々。人聞が善いことをして死ぬと、その死後、天国に生れ神となり、楽を受けるとされる。しかしまだ真理を知らぬが故に、やがて人間その他に生れ変わり、真理の道に早くから入らねばならぬとされる。人とは人間、つまり神々や人間の師匠、先生という意味で、これも教育。
十、仏陀、世尊−ブッダとは真理を悟り、人々を正導される方、世尊とは、世の中で最高の幸福を得た方(真理を悟ったから)最も尊い方という意味。

この十を如来の十号と云う。この十の中、大部分が、真理を悟った方という意味と、人々を正導するという意味があることが分かる。

仏けとは、ブッダ、フット、ホット、ホトケとなまったのであるが、大智、大悲と云われるのは決して、宇宙の根元とか、人間の運命を左右するとか、拝めば御利益があるといったことではない。仏教の名を盗んで、中味をすりかえ、しきり物的御利益や病気治しを宣伝するものがあるが、これは仏教を知らぬ者が、知らぬ者の欲望につけこむ全く悪質な信仰営業である。

まず仏教とは何か、三宝をよく知って、今、自分ははたして真理を求めているのか、家庭円満を求めているのか、病気が治りたいと願っているのか、その自分をよくつきとめねばならない。そして、真理よりも身近な幸せを望むのであれば、そのように正直にならねばならない。自己を偽っては仏教の学習などおぼつかない。

真理は学習によって、教われは徹した信仰によって、ただし幸せの満足は善の施、奉仕によってと二つを明白に導かれるのが、正しい仏けさまである。みそもくそもいっしょくたの信仰から、まず基礎から分ってゆく正しい仏教の道を進んでゆきたいものである。この次が、真理とはどんものかという説明となる。
(「浄福」第39号 1976年11月1日刊 )      田辺聖恵
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