仏教の基本 

「浄福」第39号 1976年11月1日刊 

三宝聖典 第一部第一項 三宝
「アーナンダ(阿難)よ、もしおんみに法を聞かんと願う者ありて、おんみみずから、慈しみをもってかれらを導かんとなすなれば、かれらをして三つの所へ向かわしめ、入らしめ住せしむべし。
 第一はブッダ(仏陀)へのこわれざる信仰なり。『ブッダは如来・応供・正等覚者・明行足・善逝・世間解・調御丈夫・天人師・ブッダ世尊にて、こよなき世間の帰依所なり。』……」


    「仏教の基本」                        田辺聖恵 

 信仰と宗教
信仰と宗教の違いが、まずはっきり分らねばならない。信仰とは、何か偉大なものを信じ仰ぐということである。それは、その偉大なものへの崇敬であったり、感謝であったり、信頼であったりする。

宗教とは、人間にとって最も大切な教えということである。宗とはムネ、胸、人間にとって肝要なところということであり、教えとは、教えられて分るもの−ということである。教えは、必ずしも、コトバを通さねばならぬというわけではないが、出来るだけコトバを通し、そのあとは態度、手本で示し、さらに受ける側の体験を生み出させるようにするものである。

  知・心・行
つまり、まず知らされて(コトバによる説明や手本)、それをある程度理解し(理性を通して分る)、もし、そのように自分もなれたら素晴らしいな、いやならねばならぬ、いやなれるに違いないと確信するようになる。やれば出来るはずだというのが信である。そして、教え導かれる通りにやるのが行、実行、修道である。それは別に難行苦行ということではない。この行というコトバは、ずい分と誤解され易いものである。難行苦行をすれば、確に、人からは尊敬を受ける。尊敬を受けるのは、気持のいいものである。偉くなったということであるから。しかし、仏教はそうした気持こそ、思い上り、慢心、煩悩であるとして否定する。讃められて喜ぶような時こそ、まさに墜落の第一歩なのである。

 行とは1、学習、2、体験、3、生活化、4、正導の四つ。

まず仏教とはどのような「人生観」かを学習し、その仏教としての人生観を心の底から納得し、体験化する。そして、そういう人生観をもって毎日の生活をしてゆく。それが日常のこととなり、特別のものでないようになってゆく。それから、そうした人生観を知り たいと思う人、教えてあげたいと思う人に正しく導いてあげるのである。ではまず何を学習するのであるか。三宝である。

仏教の構成要素は「三宝」である。仏陀(ブッダ)と正法(ダンマ)と正僧伽(サンガ)この三つである。ブッダとは生きとし生ける者の中で最高の方であるので宝。人中の最尊。ダンマは真理であり、その真理を体験化し得る教えであるから、教えの中で最高のもので宝。サンガとは、ダンマ真理を学習して、ブッダのような理想者になろうとする四人以上の知・信・行集団で、集団の中で最高の、ものだから宝。この三つの宝が仏教を構成しているので、一つでも欠けていたら仏教ではない。

日本の仏教は、この三宝を、ナムアミダ仏にこめたり、南無妙法蓮華経(ダンマ)にこめたり、禅(サンガ)にこめたりするので、よほど聞き入らないと三宝が分かりにくい。したがって聞きかじりの誤解が生じやすいので、用心せねばならぬところである。

恩師、水野弘元先生(駒沢大副学長)は「日本仏教は大学院クラスの教えであり、原始仏教は基礎、中高校の教えである。又この二つは一貫するものである」と明快に説いておられる。基礎が分らねば高等教育が分らぬはずであるが、どうも、その基礎を説くところが無いのは、困ったものである。今日のように旧仏教から離れ、新宗教に人がゆくのは、分らぬことは信じようがないという現代人の性向からであろう。

ある程度の予備知識、つまり分ってから、始めて信じるのであって、いきなり、何も分らずに信ずるという人はめったに居ない。それは今日のように学校教育で十数年も知る、分ることのみを練習し、信ずるということを練習しなくなった人間にとっては、なおさらである。今日は、学校教育によって「信ずる力」は退化したと考えねばならない。

又もともと信ずるということは、もっとよく知りたい、分かりたいという欲求を含んでいると考えねばならぬであろう。こゝに動物がいる。あそこに餌があると信ずる。しかし、そこに走っていってこれが餌だと分かリ、初めてたべるのである。知ることも、信ずることも、行動となって完了する。従って行動は完全に知った段階と考えねばならない。信には知りたいという欲求があるのであり、知るということは、そうに違いないという確信の裏づけ、強調があって初めて、完全に知るという行動へと導かれるのである。

知・信・行はまさに表裏一体ではあるが、分かりやすくするためにはまず知から入るのが最も今日的であろう。そしてそうした体系をとっているのが、釈尊によって開始された釈尊仏教・中道門。
 中道門とは、知るという人生観を中心にすえた仏教論のことである。従来、日本には、聖道門、浄土門の二傾向に分けられていたが、この二つを左右に立て、その中心に立てるべきものが、釈尊仏教−

   聖道門(行を主にする−空の体験を実証する
 中道門(知を主にする)−縁起の人生観に徹してゆく
   浄土門(信を主にする)−救いとられると安心する

中道門である。これは目新しく、異端の説のようであるが、実は仏教の原流そのものである。「中道即ち八聖道」と、釈尊は、その四十五年間の正導を、その一道をもって貫かれたのである。「八聖道のないところに仏教はない」とまで云っておられる。その八聖道の第一が正見、−つまり正しい見解、正しい人生観、正しく知るということであるから、中道門とは、知ることから始まり、信を経て、さらに行を経て、完全に知る(悟る)ということを目的とするものである。では、まず何を知るべきか、それが三宝である。

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