お浄土とは何か

「お浄土とは何か」                     田辺聖恵

愛知県の佐藤幸隆善友よりのお便りに『・・死ぬことは間違いない自分、やはりたまらなく恐ろしくなるのです。七十才になった病気がちな父親に、早く歎異抄やおシャカ様の話をしてやりたい。聖恵先生の浄福を読ませて頂きながら、父を思い出し、目頭があつくなってきます。ほんとうに有難く思っております。

この間、社会科の授業で平安時代浄土教のことが出てきました。『先生極楽浄土っていうけど、極楽や地獄ってあるんですか?』と質問されました。『あると思います』と答えると『どんなの?』と聞き返えします。いろいろ云ってみるのですが、ぼく自身が極楽も地獄も見えていないのに生徒たちに説明しても、納得いく説明ができません。どのように話をすればいいのでしょう。お教え下さい。』

このような疑問を持たれる方は、随分多いのではないかと思われる。浄土門(アミダ仏のお浄土に往生することの法門)は、信ずる方式なので、納得ゆくように知性、理性を通して分ってゆく方式になっていない。現代人のように十年も学校教育で、それは何か、それはどうなつているか-という知ることばかりやらされてきては、信ずる力はすっかり退化してしまう。そのために、知ることを通さず、信じなさいと云われても遠ざからざるを得ないのである。

昔の人が知る方式でなく、信ずる方式で心いさみ、進んでそれを求め、満足していったのは、時代環境で知ることを要せず、というよりも、知ることを権力者から押さえられていて、信ぜよと強制されていた為に、信ずる外ないという生き方をさせられていたからでもあろう。ヨーロッパにおいても中世は長い間、信ずることが強制され、知ることは抑制されていたのである。地動説を唱えたコペルニクスガリレオが宗教的異端者として排斥されたのはたった三百年前のことである。

さて、信ずるということは、はっきり分っていること(分ることが可能なこと=真理)があって、それを知るという理性を通さずに、分ったと同じような感情状態になることである。       

理性で分らない時の感情状態(不安定)は、分ったことによって変化し安定してくる。つまり理性と感情は、完全に分離するものではない。いわば連動式に働く。この連動性を失うとノイローゼとなったり、冷酷な知性人になったりする。

釈尊の仏教が目ざす覚り(ニバーナ)は、この究極を完全に知り分り、体得することによって、分らないことによる知的不安定から説出する慧解脱と、その分ったということからくる感情の満足安定の心解脱と、この二つの安定(倶解脱)を意味する。この基本線を外れては釈尊の仏教でなくなる。

この『浄福』で、七十七号になるまで、主として、南伝大蔵経の中から抄出し、私式に抄訳した『三宝楽典』をご紹介しながら、釈尊仏教の内容を明確にすることを努めてきたのは、まず基本線を明らかにすることをせねば、すべての仏教論は、とかく遠まわりや、 水かけ論になりやすいので、それを前もって防ぐためでもあったのである。なぜならば、日本仏教は、この基本線を明確にすることをせず、いきなり大乗仏教としての真髄を説くので、ぱっと飛びこめる人と、まるきり入れない人を作っている。これでぱ過去にその必然性があったーにしても、これからの仏教運動としては失格と云わざるを得ない。少くとも中学生、高校生が社会科で仏教の思想を学習しても、もやもやのまゝ通りすぎてしまうであろう。

では仏教の基本とは何か、三宝である。ブッダ(理想者)ダンマ(真理=正法) サンガ(仲間) この三つ。そこで浄土門はどのようなものであるか、をこの三宝にあてはめて考えてゆけば分かり易いであろう。浄土門を専門に学習又は信仰をしてきたのではない私が、このような試みをするのは、適任ではないが、何人もの僧職の方や、その著を問うてみるのであるが、独特の解説はあっても、原飴仏教とのあてはめにおいて明確という面を聞知することが出来ない。

そこで不勉強な私が私なりに原始仏教に照らし合わせながら、浄土門の勉強をこれから時折りしてゆきたいと思う。

多くの人の疑問点は何か。お浄土があるかないか、あればどのようなのがお浄土か。アミダ仏とはどういう仏けさまか。お浄土にいったらどうなるのか。お浄土に何がゆくのか、霊魂がゆくのか。霊魂はあるのか、無いのか。お浄土には死後ゆくのか、生きている間にゆくのか等々。


結局、これらの疑問は仏教全体にかゝわることということが分る。そこでまず「浄土」ということに限定してみると、大乗経典にその根拠を求めねばならない。なぜなら原始経典(アーガマ経)で釈尊は、アミダ仏及びその浄土について一言も発言されていないからである。なぜかというと、その必要が無かったからという外あるまい。浄土とは一口に云えば、み仏け(理想者)を中心にした世界ということである。するとおシャカ様は仏けであったから、おシャカ様を中心にしたその周りは1お浄土ということになる。しかしおシャカ様の洗縁にふれても入門入信はせず、又入信しても退転(止めてしまう)した人も多かったし、法縁がまるで成立しなかっ良人も無数に居だから、その現実を浄土と云うのはかえって奇妙ということになる。そこで一応原始経典をはなれて、アミダ仏及びその浄土を説明したお経によらねばならない。前掲の仏説アミダ経と「大無量寿経」と観無量寿経とこの三つが代表的でいわゆる三部経(三つのお経)と云われる。

浄土門の各宗はこの三部経を根拠としている。そこで一番、原型としての短い仏説アミダ経を読むと(経は読むもの、書かれたのは読まれることを目的としているから)浄土のことは大変明快に述べられている。ことさら哲学的にむずかしくしたり、信仰的に神秘化したり、特殊な解釈をしたりする必要はないようである。もしその必要があるとすれば、己の信心をいかに深めてゆくかという過程においてであろう。

文字文句通りだと、西の方に十万億もの仏けの国(浄土)があって、そこを通りすぎた先にアミダ仏が居られるお浄土があると述べられている。その中にいる人々は一切の苦しみがない、だから極楽だと。もともと楽は苦の裏表であるから、苦がないということはそうした相対の世界の苦とか楽とかではないという、今日風に云えば絶対の世界である。絶対の世界とは様相を含みつゝしかもそれを超える世界だから、文字通りの解釈、受け取りはもともと不可能だということになる。それでは従来の説き方と同じになってしまうから、次号でこの経典に即して勉強を続けてみよう。
浄福 第七十八号 1980年3月1日刊