「三宝」71号 五つの幸福原理 #7(根本真理 ニ)

 根本真理(二)

すべてのもの、ものごと、人間が、変化するという原理、縁起という根本真理は、それを分けて考えますと、次ぎの内容を持っています。

1、自由―もし人間が、誰かによって作られ、永久に変わるものでないとすれば、私たちはこうなりたいああなりたいという希望を持つことも出来ないし、そうなる実行表現も出来ないということになります。ところが、自然の事実をみると、皆うつり変わりしております。そこで変わりたいという希望も持てるし、実行することによって変わることが出来ます。ただし物質的な面ではその制限を受けるので、完全に自由にはなれません。ただ私たちは、無制限な希望をもつことが価値ではありませんので、その点で自由に気ままに行えるという必要がありません。もし気ままに皆がすれば、たちまち混乱がおこり人類は亡びてしまうでしょう。それでは自由も何もあったものではありません。そこで自由というものは、価値を実現したいという理想心の中において得られるかどうかということが、自由ということの問題となります。こうなりたいああなりたいと欲求を持たなくなれば、それがかなえられないという不自由は感じなくなります。人間の本質に立ちかえることができれば、目先の快楽を追い求めるということをしなくなり、心に束縛や限界を感じなくなるので心が明るくのびのびとなり自由となるわけです。さらに心が覚りにゆきつけば完全な自由となります。それは誰でもやれば出来ることなので、仏教においては自由があります。容易にそうなれるとは云いませんが。

 根本真理の、すべてが変化するということが理解出来れば、変化することすなわち自由ということを認めざるを得ません。すべてのものが、自由だからこそ人間もまたその本質としての自由を求めるわけです。人間が不自由なるがゆえに自由を求めるのではなく、本来が自由なのを忘れているがゆえに自由を求めるのです。

 2、平等―とはその本質において同じであるということです。すべてのものは変わりうるから、また変わらざるを得ないから、どれでも変わるという点で同じです。ある人は立派である。この人は劣等である、そしてずっと変化しないとすれば平等ではないが、立派な人もつまらなくなってしまうし、劣等な人も努力して立派になることも出来るので平等です。つまりその性質においてすべての人間は平等なのです。

 インドでは、ある人々は神の□から生まれ、ある者は肩から生まれ、ある者は腹から生まれ、ある者は足から生まれたとして、四つの階級を立て、平等ではないとし、いまだにそれを守っています。釈尊はこうした人間の不平等はあやまりであるとして立上がり、教団信者間(サンガ)においてはすべて平等であるとされました。ここにその理想の実現があったわけです。

 変化するということは、人間に限らず、物質も、ものごともみんな同じです。すると人間も動物も自然すべてが同じ、平等であると云えましょう。この理由で、動物の生命も人間と同じように大切にせねばならないのです。仏教は戦争を自分から起こすことはありません。しかし世界中の人々が、このようにすべての平等が分かり、実行するようになるには経済的な安定や精神の向上、真理教育の普及ということがされねばなりません。では誰がやるか。それらを自覚する一人一人が少しづつ、そうした努力をせねばならないのです。世界の平和はなぜいつまでもこないのか。それはこのような真理の普及がなされていないからです。これが仏教徒の偏見でないことを願います。

 3、相関―すべてのものは二つ以上によって成り立っているということです。しかもそれらは、無関係ではありません。人間と人間、人間と太陽、地面と家、すべて関係があります。苦しめあう場合も喜びあう場合もあります。そこでなるべくなら喜びあうように変えてゆかねばなりません。

 私たちは、この相助けあいの関係をあまり気付かずに、憎しみあうことの方が多いのは困ったことです。それもこうした関係にあること、それが本来相助けあいなのであるということを気付かないことに原因があります。調和するものは続き、不調和のものはこわれ新しい調和を求めて変化してゆきます。このように、一つのものとして単独に存在するものはないことが分かると、自分は孤独であるという間違った考えなどもなくなり、それからのねたみ、憎しみといった心のゆがみもなくなってきます。そして相助けあいの関係、互恵の関係だということが分かり。したがってすべてに感謝するという心も出来てきます。太陽に感謝し、先祖に感謝し、供養もする心になって初めて、人間は明るい幸せをつかむことが出来ます。

 4、自立―すべてのものが変化してゆくということを知り、それに合わせて行動することができるのは、人間のとりえです。人間は考える力、覚える力があります。単なる動物ではありません。真理を覚るということは、何と素晴らしいことでしょう。まして真理に合致するような生き方をする人は、実に尊い人間です。決して水泡のようにつまらない存在ではありません。人間がこの真理を知り、真理を体験し、正導してゆくのでなければ、誰がそれをしましょうか、この自覚を持つ人は、生き方に対する大きな迷いは持たなくなります。したがって大きなあやまった欲望に追いまわされるようなこともなくなります。

 毎日のささいな欲望や迷いや愚かさがあっても人格そのものを傷つけるようなことはないでしょう。こういう人は、自分の生き方に責任を持ち、自分の考えによって生きます、これが自立(自己確立)です。真理を知ることによって初めて自立性のある人間と云えます。自己の欲望中心の生活では自立性とは云えません。相関関係にあるということは、自分もそうあるということです、人間の本質とはこのように、真理を実現するという価値ある生き方をすることですから、人間は尊い。この人間の尊重こそ、仏教の心髄です。

 覚るという精神においては、他の何ものにもまさるがゆえに主であり、自ら価値の実現者として、現実の中で確立するので、自立ということです。