「三宝」71号 五つの幸福原理 #8 完(理想原理)

 Ⅶ、理想原理

 理想原理の定義-永遠の生命歴史の中で、真理と人間愛を体験、実現し、他の人々の幸福実現のために、無限に奉仕すること。

 真とは、この世の中のすべてのものに共通する、本質です。真理とは、それをすじ道として理論として考えたことです。

 実とは、すべてのものの本質が、表現されている事実です。真実とはふつうには、どちらもただまこと、本当のこととされていますが、よく考えると、これはものの本質と表現ということです、この真実が実現されることを理想と云います。

 この二つは実は分けることが出来ません。本質、性質だけが、空間に存在することはありませんし、現れている物が、性質を持たないということもありません。しかし私たちは、理性の働きを訓練してきたので、物のなかにあるすじ道を理として考えることが出来るし、それを応用して、いろいろな物を作り、事件を起こし、歴史を作って発展してきました。平安時代の姿をみると、立派な御殿なのに畳などは無いようだし、一般人は裸に近い服装で、皆が文化的とは云えなかったようです。ところが今はどうでしょう。レジャーブームで焼け死ぬというまでになってきています。遊ぶために働くということは、遊ぶことと働くことをあまりはっきり分けすぎて、働くことを苦しいことと思うようになってきてしまいました。また経済繁栄がすぎて、物が豊かになり、あまりにも生きやすいことが、かえって生きる喜びを失わせ、若い人が、かんたんに自殺するという現れが目立ってきました。これから、仕事を楽しむという人間が尊重されるようにならねばなりません。

 人類は二百万年の歴史を、持ちます。しかし自動車で走り廻るようになったのは最近です。生命の歴史は四十億年と云われます。それに比べると人類はまだまだ歴史が始まって間がない。これからもっともっと長く続き、進化してゆくと考えられています。しかしただ生命が続くだけでは価値がありません。そこで人間とは何か、生命とは何か、価値とは何かと疑問が出てきます。考えることは、真理を見出すということです。二千五百年前に釈尊は、その根本真理を覚られました。すべて変化するということです。

 人間は誰でも自分が可愛いい。つまり人間は自分のために生きます。この自己愛をよく考えてゆくと、自分一人だけでなく、多くの人を愛するという広い心があることが分かってきます。つまり人間愛をすべての人が持っています。人間愛を持つことは、人間としての真理です。そこですべてに共通する真理と人間愛を知り、それを体験することによって誰でも本当の深い喜び、満足を味わいます。そして人間は行動するものですから、その喜びのまま生活をします。真理を知れば、それを実行し、事実として表現します。字を知れば字を書きます。これが実現です。私たちは理屈だけの架空な生き方をしているのではありません。過去のことにおびえて生きるというのは、架空に生きていることになります。間違った先入観や、未来への不安で、足が地につかないのも架空な生き方です。「いまだ来ていないものにおびえるな」と釈尊は教えられます。

 自分というものは、人間の本質を深く堀り下げ、よく教えられて、なるべく人間らしく生きることです。このように自分の本質を表現することが出来れば、何と素晴らしいではありませんか。過去の傷つきも、未来の不安も、真理に合致しないものは、どんどん切り捨てて、明るい統一された一つの心、向上心、善意の施、謙虚などで生きられたら本当に幸せですね。

 さて自分はそのように幸福になってゆきますが、まわりをみてみましょう。真理を知り、真理を体験し、真理を実現してゆく人がいるでしょうか。あなたのまわりはそれらを知らない人々で一杯です。そこで今度はそれらの人々に少しでも、自分の知ったことを正導させて頂かねばなりません。それも一人に一回すればよいということではありません。無限に、地球上のすべての人が真理を実現する幸福にゆきつくように働かねばなりません、それは報酬を求めてするのではないから奉仕です。施行です。

 このような実生活がなされれば、理想の実現です。理想とは最高の理を想うことですが、まだ実現ではない。実現となって初めて価値が生じます。そのためには常に理を思い、その思う心を強化し、実現されると確信を持たねばなりません。

 ではどうしたら確信を持てるか。それはかって二千五百年前、インドにおいて釈尊が何万という人々を正導なさったという事実があったことを知るべきです。そして今もなお、その精神は無限に働き、私たちに感応し、正導して下さっているのです。それは三宝という形で、私たちに縁を作っておられるのです。これは架空ではありません。このことは、私たちが三宝を信仰する時に、事実として働きかけています。その三宝の力を受けて私たちは幸福になることが出来ました。そしてその力を受けて、人々を幸福にすることが出来ます。こうして自分は三宝の中で、覚らされ、救われ、人々に奉仕するということが出来るようになるのです。

 これは単に生命が死後まで続くというようなことよりも、もっと大切なことで、この真理実現という奉仕生活は実は目覚めた人間の是非やらねばならない使命であり、み仏と三宝と共に歩む。少なくともその手足となって働かせて頂く聖業です。

 価値ある人間が、価値を実現して生きる、それは動物的生命を超越したことです。たとえ一生のうち一日でも、そうした生き方をすれば、苦悩して百年生きるよりも尊い釈尊は励まされます。

 み仏様は、アミダといってもシャカ如来といっても、人々を導くという点で実は同じ仏さまです。常に私たちに大智大悲をもってはたらきかけて下さいます。この仏心と三宝こそ、私たちの力であり、それこそ理想そのもの、それは架空ではないから、事実そのものです。この仏心と三宝という真実の中に私たちも一分子、一仏子として、ボサツとして価値ある人間として、つねに充実した奉仕の生活をすべき人間として、生まれてきているということに目覚め、自分のまわり、世界のすみずみまで真実にあふれさせようではありませんか。このことが私どもの、すぐには完成しないまでも、永遠にやらねばならぬ理想です。この理想原理を実現してゆく過程で、覚りも救われも、もっと確実なものとなり、いわば最高の幸福にゆきつくということになります。