勤労の聖僧 桃水 #45 完(十、臨終 そのニ)

聖僧は、臨終の地を京都に選んでいる!その行為は自発的のものであろうか?或いは、余儀なき事情のあった故のものであろうか?そのことに対しては、私の想像するところに依れば、禅林寺脱走以後の聖僧は、もはや、自然と労働とに親しむ以外には、この人生に於いては、何等の愉しみをも見出し得なくなっている、完全なる世捨人であり、真実にして厳格なる意味に於ける出家である。としてみれば、若し、そこに余儀なき事情さえあらねば、聖僧は、名利の巷である京都には身をおかないであろうと私は想う。何となれば、どれ程、名利に対して超然的態度を採り得る人であろうとも、やはり、名利のために東奔西走する人間行為を集中的に刺激的に蒐めている都会生活を見ては、人間である限りは、人間的な不愉快さを感じさせられるであろう。そして、もはや、自然と労働に親しむこと意外にはこの人生に於ては何等かの愉しみをも見出し得られなくなっている老齢の聖僧に取っては、この不愉快さは肉体的の苦痛とさえ感じられるものであろう。従って、如上の境界にある聖僧は、斯かる肉体的苦痛からは身を避けたいであろう。とはいうものゝ、聖僧は、どこ迄も人生を愛する楽天的性格者であると共に、特異なる自己の性格をも限りなく愛し続ける人である。斯かる性格者は、敍上の如き場合に於いてさえも、身を都会から避くるにも遠い地域を選ばないであろう。何となれば、斯かる行為に於いては、人生を強く愛している自分を意識することも出来ない。また、自他の比較相違をも強く意識することが出来ない故に、特異なる自己の性格を限りなく愛し続ける自分をも強く意識することが出来なくなる。詰まり、生きる悦びを強く感じることが出来なくなるからである。

茲に於いて、聖僧は、京都付近に風光明媚なる地を選んで、そこに居を卜していたかったのであるが、余儀なき事情のために、京都市中に住むことになったのである。その事情とは、斯うである。

当時、京都に、角倉某という人がいて、富豪の中の一人として知られていた。この角倉氏は、黄檗山の高泉禅師に帰依していた関係から、高泉禅師から、聖僧の人柄を聞いていた。
 
ある日、角倉氏は、無理矢理に聖僧を家に招いて、坐禅の用心に就いて訊いた。
 
聖僧は角倉氏から坐禅の用心に訊かれたことに対して答えない訳にも行かないと思って、斯う答えた。
「醤油は、土用のうちに作ってよし。味噌は、寒のうちにつきてよし。」
 
普通一般の人が聞いたならば、それは意味があるような、無いような、何が何だか分からない答えであろうが、流石は、高泉禅師に帰依浅からぬ角倉氏であったゞけにその答案にはすっかり感心してしまった。
 
その角倉家に、熱烈なる浄土宗信者がいた。一日に一万遍は念仏を唱えなくてはならないと日頃から世間話にいっている男であったから、ある日のこと、その上の信心に就いて、聖僧に対して、訊いてみた。
 
すると、その時、傍らに硯があったので、聖僧は筆を取って、
『念仏を強いて唱うもいらぬもの、若し極楽を通り過ぎては』
 と、斯う書き与えた。
 
既に、最初の会見から、聖僧の人と為りにすっかり敬服してしまった角倉氏であった。まもなく、角倉氏は、聖僧に対する熱心な帰依者になった。
 
そのことがあってからというものは角倉氏には、何時何処に去って行くかも分からない聖僧のことが、何時何処で示寂を示すか分からない聖僧のことが、心配せずにはいられないことになった。
 
角倉氏は、どうとかして近くに住居を定めさせなければならぬと思ったものだから、色々と毎日工夫をこらしていたことである。
 
そのうち、ある日のこと、ひょっこりと聖僧が訪ねて来たものだから、角倉氏は世間話の序でかのように、聖僧に対して、こんなことをいい出した。

「禅師様、出家なるものは人の供養、施物に依り一生を過ごすのが慣いと聞くに、禅師様がとかくそれをお嫌いなさるのは如何様のものかと存じまするが、そのことはとにかく、私としても強いて供養主となろうなどゝは考えませんが、私は、信施とならざるもので一生暮らして行けるよい工夫を考え付いているのでございますが、お聴き下さいますか?」

「いや、どういうことかは知らぬが、然ることがあるか?合点も行かぬのう。」

「いや、ところが、俗人に致しますれば、誰でも算用というものがあるのでございます。」

「それはあろうがのう。……」

「和尚様、そこでございます。―例えば、私のことでございます。私が大勢の者を使いながら、別段、金銀財宝を減らさずに行けるというのは、謂はゞ、算用の妙を得ているからでございます。」
 
角倉氏は、それから続けていった。

「ご覧の通りでございます。―私のうちでは大勢家内の故に、朝夕に焚く飯も大変なものでございますが、それが大体の見当をつけて焚いてはおりますが、臨時の来客のことも考えますので、何時も余分に焚きます。それ故、残り飯が沢山で、乞食や貧民に分けてやりましても、まだ余って困っておるところでございます。そうかと申して、それを堀川へは捨てられますまい。大切な穀三宝のことでございますから。犬にもやる、馬にもやる、鼠にも食わすといった始末でございますが、これを一つ、禅師様が酢にしてお売りならば如何でございましょう。」

「成程のう。」

「これを売って、それにて米をお求めならば、これは根元に於いて施主のないものでござるから、詰まりは、施し切れぬ余り物であれば施主なきも同然、―これをお売りなされては如何でございましょうか。若し、和尚様に於いて以上のこと御合点ならば私は、北山の鷹峰に住む酢屋の茂助という者をお引き合わせ致します。この者は私の家の召使いでございまして、今住んでいる家も私の家でございます。その家の隣にもう一軒私の家がございます。その家に老僕一人を相手にゆっくりとお暮らしなされては如何様なものでございましょうか?その老僕と申す者も、私の家の古くからの雇人で、私は一生養い飼いにする積りでございます。」
 
聖僧は、角倉氏の語る話の一伍一什をじっと聴いていたが、やがて、決心した者の如く、斯う答えた。

「うむ、これは実に面白い。面白い料簡じゃ。その料簡ならば、よかろう。儂にしてももう年も年、次第に道を歩くにも難儀になったから、家を定めて住むもよいじゃろうと思う。」
 
斯くて。聖僧は、その最後の晩年を『酢屋の通念』または『酢屋の道全』として送って、その生涯を終わったのである。
 
聖僧の示寂の日は、天和三年九月十九日であった。
 
死因は老衰。威儀正しく坐脱した聖僧の遺骸の傍に置かれてあったのは、次の如き自筆の偈であった。

『七十余年快哉、尿臭骨頭堪作何用、?記 真帰処作麼生、鷹峰月白風清』
 
角倉氏から附人として置かれていた老僕は、直ちに聖僧示寂のことを、主人角倉氏へ報じた。 
 
角倉氏は、老僕から聖僧示寂のことを聞いたものだから、使いを、聖僧の弟子、?密洲、智伝の許へ立てた。
 
当時もまだ黄檗山にいた、?密洲と智伝とは、その報をうけて、取るものも取り敢えず駆け付けて来て、聖僧の遺骸を迎えた。
 
聖僧の葬儀は、聖僧畏敬の僧たりし、高泉禅師の手によって、いとも厳かに営まれた。
 
また一つ新しく仏国寺に植えた無縫塔には斯う記されていた。

『円寂雲渓水老宿之塔』