原始仏教講座 第五講 その十

第五講 その十
 次「仏心」にいきます。これは法華経にある内容です。この罪の衆生は、悪業の因縁をもって、はてしなき時をすぎても三宝のみ名を聞かず。あらゆる功徳を修め、柔和正直なる者は、みなわが身、こゝにあって法を説くと見る。
 これは法華経の第十六章ですね。如来寿量品第十六と言われている所の、しかも終わりの方です。法華経というものも、先に言いました阿弥陀経、大無量寿経ですね、と同じように紀元元年頃に作られたお経で、皆が仏になるぞということを、はっきり文句、言葉として作ったお経です。
 例えば先ほどの阿弥陀経、大無量寿経の話で、たとえブッダとわれなるに、私が仏になるという時にあらゆる衆生が人々がそのお浄土に往生すると書いてあるが、人々が成仏するとは言っていないわけです。
 阿弥陀さんが法蔵菩薩が宗教活動して阿弥陀仏という仏になったという、一つの例は、例はというか仏教精神を言い表したお経としてありますが、人々が成仏するとは書いてない。法蔵菩薩が成仏したわけです。
 ところがこの法華経によりますと、誰でもが成仏するという主旨でこのお経は作られるわけです。法華経の第二章の終わりに、汝まさに作仏すべしと知れと書いてある。汝まさにというのは一番弟子のシャリホツ、サーリープッタに汝まさに、まさにとはこれから、作仏すべしと知れ、作仏とは仏になるということ。仏になると知りなさいと書いてあるわ