三宝法典 第一部 第81項 真実法

 真実法

時に世尊、コーサラ国に正導の旅をなしたまい、あまたのビク衆をともないて、サーラーなるバラモン村に至りたまえり。

バラモン村の人々は、ブッダ世尊にして、善き法を説きたもう応供者を見たてまつる幸いを得んとして、世尊のみもとに参れり。この大衆に世尊は法を説きたまえり。

「在家者らよ、おんみらは納得のゆく信をささげる、好ましき師を有するや。」
  
「世尊、われらかかる好ましき師を有せず。」
  
「好ましき師を持たざれば、真実法を受けいれて実修すべし。さすればおんみらの永き利益、幸福とならん。その真実法とは何か。

在家者らよ、ある修道者はかくのごとく言えり。『布施もなく、いけにえもなく、供養もなく。善悪の行いの報いもなし。またこの世もなくあの世もなし。母もなく、父もなく、衆生もなし。世にはこの世あの世をみずから知り、正しく到達し、正導なす修道者なし。」と。
 
またある修道者はかくのごとく言えり。『布施あり、いけにえあり、供養もあり。善悪の行いの報いもあり。またこの世あの世もあり、母もあり、父もあり、衆生もあり、世にはこの世あの世をみずから知り、正しく到達し、正導なす修道者もあり。」

と。これらをいかに思うや。これらはたがいにあい反する説にあらずや。」
  
「しかり、世尊。」
  
「在家者よ、先の説は、身体と言葉と心の三つの善行を捨て、悪行をなすに至るべし。何ゆえなればかれらは悪行のわざわいと罪悪とけがれとを見ず、善行の功徳と清浄の面を見ざればなり。あの世なしとは、邪見、邪思、邪語にして、あの世を知るアラハンの聖者に敵対なすものなり。そは正法にあらざるを示し、みずからをほめ、他をそしり、かくて無数の悪行が邪見によりて生ずるなり。
 
ここに智者は考えるべし「もしあの世なくば、この人間は身が壊れても安らかなるべし。されどもしあの世あれば、身はこわれ生命終わりて地獄に生まれん。また先の説は悪行の者、邪見の者、虚無論の者と非難せらるべし。もしあの世あらば二世において不幸となるなり。
 
また後の説は、身体と言葉と心の三つの悪行を捨て、善行をなすに至るべし。何ゆえなれば、かれらは悪行のわざわいと罪悪とけがれを見、善行の功徳と清浄の面を見ればなり。かくて正見、正思、正語を得、聖者に敵対せず。正法を示し、みずからをほめず、他をそしらず。かくて無数の善行が正見によりて生ずるなり。
 
ここに智者は考えるべし「もしあの世あらば、この身は壊れ生命終わりてよき天国に生まれん。また後の説は善行の者、正見の者、存在論の者と称賛せらるべし。もしあの世あれば、二世において幸福となるなり。
 
また次のごとき説をなすものあり。『他を悩まし、殺生し、盗み、みだらをなし、いつわりを言うも、そは罪悪にあらず、罪悪のむくいもなし。布施をなし、みずからを調え、真実語を語るも、功徳にならず、功徳のむくいもなし。」と。また一方に、この反対の説をなすものあり。
 
先の説は悪行に至り、邪見、邪思、邪語にして、聖者に敵対なすものなり。そは正法にあらざるを示し、みずからをほめ、他をそしり、かくて無数の悪行が邪見によりて生ずるなり。またその反対の説をなすものは、無数の善行が正見によりて生ずるなり。
 
在家者らよ、衆生が煩悩にけがさるるには、因もなく縁もなく、この世に精進もなく、人間の気力もなく、みずからを支配する力もなく、ただ自然の運命と自然の結合によりて、種々の苦楽を受くとの無因論は邪見なり。その反対の説は有因論にして正見なり。
 
在家者らよ、『存在なすものの滅は、いかなる場合にも無し』との説も有りとの説もわれはなさず。

 ここにみずからを苦しめず、他を苦しむる行をなさず、現在にむさぼりなく、二バーナに達し、清涼にして楽を受け、最高となりたる者あり。

在家者らよ、如来は応供、正等覚者、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、ブッダ世尊として世に出でたり。如来は五つの覆いと心のけがれをはなれ、悪行を捨て、第一段ないし第四段の心の統一を成就せり。この心は統一され、清浄にして、柔らかく、不動にして、過去を知る知恵と、未来を知る天の眼と、覚りと言わるる完全なる知恵とを得たり。」と。

人々はこのみ教えを喜びて、生涯、三宝に帰依なす信者となりたり。

南伝一〇巻一八三頁中部第一六無戯論経