中岡慎太郎と龍馬暗殺 #9

土佐藩黒幕説起点」
福岡孝弟の「言ってはいけない事になっている」について、前記では少々遠慮気味に書いたが、実は、土佐藩の福岡が、別段、薩摩藩や他藩に遠慮などするとは思っていなく(徳川幕府は別として)、私は確信的に容堂だと思い浮かんだのだが、それには当然、理由がある。

それは、大政奉還を取り巻く状況と容堂、その時の中岡の立ち位置というものに、やはり関係してくる。

まず、新撰組が、陸援隊に密偵を忍ばせていたという事実がある。陸援隊は、土佐藩としての中岡が隊長であり、倒幕軍として軍事訓練を、大政奉還前も後も続けていた。これは、藩論として大政奉還を建白していた土佐藩としては、非常にまずいのではないか。実際、土佐藩白川邸の敷地を、福岡か後藤などが、勝手に陸援隊に貸していたという話もあり、陸援隊の隊員が、酒に酔って町中で暴れたりしているという苦情が、土佐藩邸に多く寄せられたとも言われている。ようは、後藤や福岡の周辺以外(土佐藩の上士など)は、陸援隊に対して、良い印象など持っていなかったようなのだ。土佐藩にすれば、そうであろう。訳の分からない、藩として認めていない徒党の苦情を受けているのだから。

そして、密偵により得た陸援隊の内部情報を、近藤勇が文書にして会津候に上表したという証拠が残されている。それを徳川側が、会津藩から知っての、「天皇から、徳川討つべしの密勅が降りる日の前日の大政奉還」であった訳である。幕府には、すでに密勅が降りる日も筒抜けだった。

その会津松平容保は、病弱ではあったが、松平家家訓の「徳川には最後まで尽くせ」を守り、「他の外様が戦わなくとも、我が会津藩だけは最後まで戦う」といった強行姿勢であったと聞く。当然、公武合体大政奉還にも反対していた。

ここからは、あくまで推理ではあるが、決して有り得ない話ではない。

もし、その大政奉還を建白した容堂に、松平容保が「大政奉還を推し進めた御自分の足元、自藩では、徳川を討とうと、陸援隊という倒幕軍を、隠しているではないか」と、苦情を言ったとしたら・・・、容堂はきっとカンカンに怒った事であろう。しかも慶喜には、大政奉還建白時に「さすがは、容堂!」などと褒められたりもしていた。
 
陸援隊は、後藤と福岡が、藩の主要には知らせず勝手に作ったものであるから、容堂が知らなかった可能性は高い。プライドの高い容堂候の事、面目丸潰れと成ったであろう。そして、すぐにでも、家臣に確認した可能性が高い。それも、大政奉還前の可能性もある。もしかしたら、後藤や福岡に直接、事の真意を迫ったかもしれない。が、後藤や福岡は、当然惚けた筈である。あれは倒幕の為ではないと誤魔化したかもしれない。

となると、容堂が、他の土佐藩上士に対して、龍馬や中岡をどうこうしようとするまでもなく、陸援隊と並び、藩の倒幕勢力の存在を押さえ込もうとした可能性が高くなるのである。お殿様の命令であるし、藩論でもある。

そうなった場合、命令を受けた土佐藩上士は、後藤や福岡を差し置いて、陸援隊を解散させる事は難しいと考えたのではなかろうか。いや、陸援隊は、中岡の死後も、谷干城と副隊長の田中光顕によって継続した。戊辰戦争でも活躍はした。容堂も、慶応四年(1868年)一月三日、 旧幕府側の発砲で戊辰戦争が勃発すると、自分が土佐藩兵約百名を上京させたにもかかわらず、土佐藩兵はこれに加わるなと厳命した。しかし、土佐軍指揮官・板垣退助はこれを無視し、自発的に新政府軍に従軍した。諦めた容堂は、江戸攻めへ出発する板垣率いる土佐藩兵に、寒いので自愛するようにと言葉を掛けた。だが、その時はすでに時流が変っていたのである。暗殺時のタイミングは、王政復古の前である。
 
命令を受けた土佐藩上士は、隊の頭を抑えればとなり、標的は中岡慎太郎となった。だが、土佐の人間の誰が出来るのか? 谷の言うように、当時の土佐の人間で、手練れなどいないとなると、他に頼らざるを得ない。

穿った見方を更にすれば、会津から苦情を受けた時、流れからして、容堂が「会津藩の好きにしてよろしい。所詮、脱藩浪人なんぞ」と冷たくあしらった事も考えられる。会津としても寺田屋事件で伏見の同心二人を殺されているから、「では、そうさせてもらう」となり、容堂の命令で、土佐藩上士の誰かに「会津に協力するように」となったとしたら・・・。

ではなぜ、陸援隊の事を上表した新撰組が暗殺を実行しなかったのか? 新撰組にしても、実のところ要人暗殺は少ない。新撰組は、暗殺部隊というイメージが強いが、それは新撰組内部の粛清が多い。あくまでも、捕縛を目的としている隊である。それに、新撰組では、極秘の暗殺は無理であろう。見廻組と違い、浪人集団であるから、手柄を宣伝してこその組織であるからだ。

中岡と龍馬の暗殺後も、近藤が佐々木に「昨夜はお手柄であった」と、冷静に言っている所から察すると、当初から、暗殺部隊として、新撰組ではなく、見廻組が選ばれたのだろう。その見廻組にしても、京都守護が本来の役割であり、研究家が「暗殺実行部隊のメンバーは、正式な見廻組ではなく、傭兵部隊の様相が濃い」とするなら、しごくもっともである。
 
では、中岡が標的であるのに、何故龍馬も暗殺されたのか? 会津が実行するなら、当然龍馬を標的にしたい筈である。これは取引きではなかろうか。土佐の標的の中岡を引き受ける代わりに、会津としては坂本を、という事である。もしくは、新撰組に居た、阿部十郎の談話に於いて語られているように、龍馬も陸援隊の隊長であるという間違った認識があったからかもしれない。事件を調査した尾張藩の『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』に於いても、白川の陸援隊は、龍馬の徒党の者としている。どうやら、外部から見た場合、龍馬も陸援隊の隊長であるという認識があったようだ。実は、土佐藩にしても、そういう嫌いがあったかもしれない。前述したように、土佐藩の白川邸は、後藤や福岡などが藩には知らせず、勝手に陸援隊に貸していたとするなら、陸援隊自体が土佐藩にとって、不明な点が多かったのではないかと推測出来る。であれば、中岡は当然だが、坂本も隊長らしいから、同時に殺ってしまえ、ともなったのではないか。隊長のいない隊なら、コントロールしやすいという事である。

そして、幕府側密偵の増次郎には龍馬を、中岡の動向は土佐藩の誰かが請負い、近江屋に出入りしている誰かに、中岡が来たら知らせろと言えば簡単であるし、母屋の詳細な間取りも知る事が出来る。近江屋は土佐藩邸のすぐ隣でもある。

更に、何故二人同時なのか? それは、龍馬と中岡で別々に実行となっても、二班を作り同時刻に襲わなければならないからである。何故なら、どちらかでも、先に殺ったとしたら、残ったほうは更に警戒を強めて、討ち取りづらくなるからだと考える。別々に暗殺するより、むしろ手間が省ける訳である。それに、中岡は陸援隊の白川邸にいて、隊士が多数いるので、手を出しづらい。

もしくは、土佐藩側が、中岡の居場所を見失っていた可能性もある。

符合する事は、暗殺年の十月、伊東甲子太郎が中岡に、新撰組に気をつけるよう忠告した時、最初は「身を惜しむ事はない」と告げたが、後日、忠告を受け入れ、中岡は寓居を変えている。土佐藩としても、急に居所が掴めなくなり、焦ったのではなかろうか。さすれば、龍馬のいる近江屋を見張っていれば、中岡は来るだろうし、そのタイミングを計って、見廻組に知らせる事が出来る。
 
以上はあくまで推理であるが、現実的に中岡は、後藤や福岡からも、燻しがられていた証拠がある。

大政奉還前、土佐の兵を上京させなかった後藤に対して、中岡は龍馬に「後藤を斬る」とまで言い放っていた。龍馬はなんとか中岡をなだめたが、福岡に対しては福岡邸に乗り込み、暗殺未遂すら起こしていたのである。

であるからか、事件当日、龍馬は、風邪を引いているにも関わらず、午後三時と五時に渡り、わざわざ二回も福岡邸を訪れている。本の多くは、目的を書いてないが、後の福岡談話には、その理由が述べられていて、「あとで家人に聞くと、今まで中岡がどうしても聞かない。中岡は武力倒幕論であったから。ところが、どうやら中岡もそろそろ折れてきた。だから私に安心するようにと言いたかったらしい」という事であった。

事件後、早い時期から段々と、この暗殺事件に対する土佐関係者の消極的な態度を見て取れる。

「我が土佐藩が関わっている」と、それとなく聞き及んだなら、至極当然のような気がする。谷にしても、「紀州人が新選組を扇動して、新選組の者が斬りに来た。鞘は全く原田左之助の鞘である、こういうことになっている」という、土佐藩の決まり事にでもなっているかのような言い回し。土佐藩重役、寺村左膳の「脱藩者の事であるから、藩としては、この事件に表向き不関係の事」とした態度。維新後に於ける後藤の沈黙。菊屋峯吉や近江屋主人の、不確かな証言。これは、菊屋にしても、近江屋にしても、土佐藩御用達である。口止めや何かしらの圧力があったのかもしれない。お得意様の意向に、逆らう事はしないであろう。

薩摩にしても、長州にしても、岩倉卿にしても、この暗殺事件に対して、必死の犯人捜しなどしたような痕跡もない。これも、暗殺された人間の自藩である土佐が関係しているとなれば、興ざめもしよう。

*HPのアドレスが変る為、手短ではありますが、『更新履歴』の日記10/3に於いて、推理の理由等の「まとめ」をしております。是非、そちらも参照して戴ければ、大まかな結論ですが、概要は分かると思われます。

 (つづく)


詩集アフリカ と その言葉達より
http://tjhira.web.infoseek.co.jp/nakaoka.htm