釈尊の聖言 「邪見・正見」

釈尊の聖言 「邪見・正見」
「ビクらよ、邪見は人をして、 死後地獄におとさしめ、正見は人をして天界に導かしむるなり。
 邪見の人がその見に従いて行 うところの身・口・意の三業、 希望も欲願、その他いかなる心 の働きもすべて悲しき苦の報い を招くものなり。ラーブの種をまけば、地の味をとり水の味をとるも、すべてにがき味となるが如し。そはその種、悪しきが故なり。
 正見の人がその見に従いて行うところの身・口・意の三業、希望も欲願、その他いかなる心の働きもすべてうるわしき楽の報いを招くものなり。
 ブドウの種をまけば・・・なり」
「邪見・正見」
◎見とは考えである。考えは行動の始まりである。行動は必らず結果を生む。人生においてどのような結果を求めるか、それが人生の目的でもあるから、目的と結果は同じになる。同じにしたいなら努力をせねばならない。播かぬ種は生えぬ−だから。たゞ単なる努力主義でないのは、自分をとりまく多くの縁(互恵)を受けることも努力と同じ程度に重視しなければならぬ事。単なる努力主義は自閉的自己中心となり易い。単なる神仏への信仰やおまかせも気易めで終わり易い。行動をしなければ、行動をしないという結果を招くのが真理−だからである。
◎正見とは正しい考えー努力をすれば、多くの縁が加わって、努力した結果となる、これが正しい考えである。仏教とはこの正しい道理を習い、それを応用して生きてゆく事。この生き方はまた死後にもその結果として現われる。この正見による実行が、より以上に深められた、生死を超える世界ということになる。二段構えの仏教である。

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