原始仏教講座 第二講 その十九
第二講 その十九
運命論
神意論とは神様の意思によって人間の幸不幸、運命が決まってくるのである。というのを神意論というわけです。それは邪見、三つの邪見、邪というのは正がただしい、正の反対が邪です、よこしま、その邪見である。三つの邪見の一つとして神異論をまず教えられた。それは間違いである、神様の意思によって人間の幸不幸が決まって来るんだというのは間違った考えである。それからすべてのものは運命論宿命論であると、宿命で決まっていると。
人間は生まれる前から過去の行い運命によって生まれてきた後ずっとどういう風に死んで行くと全部決まっている。四柱推命は死ぬ日まで決まっているという。自分の死ぬ日が分かっていたら面白くない。
易から出てきた中国の考えですから、仏教からいうとおかしいわけです。もしも運命が全部決まっているなら、努力してもしなくても同じじゃないか、努力してもしなくても同じなら努力する気にならない、じゃ努力しないで、運命決まっているならじっとそれ待っているしか仕様がない、ということになる。いわば果報は寝て待て式になるわけです。それがいいならやってみればいいわけですが、大体常識で考えて、どうもそれではなとなるでしょう。それは間違いである、邪見であるとこうおっしゃった。