原始仏教講座 第三講 その三

第三講 その三

次に、いたずらに身を苦しむる行なすは賢き人のせぬところ、まことの利益ともなわず。いたずらに身を苦しむるというのは、お釈迦様の時代に、バラモン教、神さまの信仰する人たちが難行苦行をしていた。それは、死んでから天国に行く、天国に行って、神さまの世界に行って自分も神さまになって幸せになるということを願ったわけです。

天国に行くためには、ただ今のままではすーつと天国へ行かれない、だから難行苦行をする。現在でもテレビでインド、時々出ます。バラのとげとげの上に裸で寝る、精神統一をしているから痛さを感じないというわけです。そういうようなのが一種の苦行ですね。

あるいはお釈迦様の時代には火を炊いて、火を神様とみて、火を一生懸命拝むというようなこともやっていた一派もあるわけです。

そういうような難行苦行することによって神さまの境地になる、あるいは死んでから先天国に生まれ変わる。そして神さまの幸せを得ようとするというような行をする人がいたわけですが、現在でもインドにいるわけですが、それは賢き人、あまり理性の、賢さを持った人ではないんだ、おろかしいではないかというわけです。

なぜならば、神さまに自分がなろうとする、神さまになろうとするのに、苦行するという論理的必然性がないということです。論理的に言うとおかしい、すなはち賢い人のすることではない。そういうことはまことの利益、本当の自己実現にはならないということです。

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