釈尊の聖言 「存在への執着」

釈尊の聖言
 邪見のものは存在(有)に執着し、又は嫌うなり。眼(まなこ)あるものはそのものを在るがままに見るなり。
 人は存在を楽しみ存在を喜び、かれらに存在の滅びを説くもそれに心傾かず、喜ばざるなり。他の人は存在を嫌い、死後滅び絶ゆるを望めり。眼あるものは、存在を存在として見、その存在へのむさぼりを離るるを修むるなり。
 「存在への執着」
 存在(う 有)とは仏教の専門語であって、人間生物の本体、永久不変の霊魂の事を云う。単なる外形的物の存在ではない。インドの人々にとって、この霊魂本体がどこに生まれ変るかが、宗教的最大の関心事であったし、今もそのようである。
 釈尊は不変の霊魂が生まれ変るについて不変のままと解釈するのをあやまりとした。又死んだらしまいで何も霊的なものは存在しないとするのも、あやまりであるとされた。変化しながら死後も存在するとしたら、今どのように対応するか、そこから仏教の学習が始まる。
 死んだらしまいとするか、せいぜいタタリする位にしか思わない日本人は、仏教の本当とする所にほど遠い。今も昔も釈尊の仏教が誤伝される事が多いのは、民族(俗)性の違いというべきか。
 存在の滅びとは何ら決着をつけずに死んでゆく無意味さを嘆かれた事と解すべきであろう。正見を持つ事は難しい。