経と律

 「経と律」
    「仏教特質」
   法ダンマを尊び 喜ぶ
   そこに仏教者の中心がある
   単なる救いでない特質がある
    法ダンマは一切に普遍する
    そこに生きてゆく根拠がある
    人間を目覚めさせる特質がある
   法ダンマは浄福をもたらす
   そこに仏教者の帰依がある
   生き方を真実にする特質がある
「仏教特質」−多くの神々は人を救う事もある。そうした信仰にもの足らなくなった人々、知性の充足を伴う宗教を求める者には、釈尊仏教が用意されている。それは真理を中心にして、浄福と真実を全現してゆく宗教である。
    「聖者の法真理に聴き入る身の幸い」
 人間には生物的な基本性や、文化的に過剰化された欲望に自ら振り回されて苦悩する面がある。しかしその中により真実を求める価値本質もある。これは縁によって開眼されるもので、こうして人は自己を全うする可能性を持つ。
   法を喜ぶ者は、清き心にて幸せに住むなり。
   賢き者はつねに聖者の説ける法を楽しむ。(釈尊の法句)
 日本に仏教が入ってかれこれ千四百年、さぞ日本のすみずみに仏教が行きわたっているだろうと思いきや、日本中の大半の人がお経を読んだことが無い。先祖供養が仏教だと思う人が大半である。テレビドラマを見るとよく分かる事だが、お仏壇に飾ってある肉身の写真に語りかける人、お墓に報告に行く場面、お位牌を持ち歩く人などがしばしば登場する。そのお仏壇に祭ってある仏様とかご本尊に語りかけるとか、お祈りするとかいう場面を見る事はない。
 これらの原因を考えると、祖先を大事にする儒教精神が大きく影響していると言えよう。その事自体は人情にもかない結構である。それは徳川時代、生き方道徳として儒教を奨励し、仏教を死者の霊をともらうものと位置付けしていた事の現われであろう。そのせいか、有名壮麗な寺院は時の権力者がその自家の先祖を祭るボダイ寺である。このボダイとは印度の言葉で、覚り、つまり仏教の専門語であって、何か自分なりに会得した悟ったという事ではない。
 辞典によると、世俗の迷いを離れた覚りの知恵とある。所がその先に、「転じて、死後の冥福」とある。先祖の死後の冥福を願う事はまことに結構と言えよう。だが、本来仏教は死後の在り方を主にするものではない。覚った聖者アラハンは生きている人間をさす。
ブッダとは如来(真理から来た方)、応供(アラハンの訳語−供養に応ずる資格のある方)、正等覚者(一切を正しく解られた方)という三つの肩書きで呼称される。いずれも理想を実現した人間であり、食事もなさる方である。肉体のない抽象哲学存在でも神秘霊の存在でもない。覚るとはそのような生きた理想状態になる事で、死後の安楽をむさぼるといった内容ではない。つまり生き方の問題がどうして死後の話になってしまうのか。この転じてという所をよほどギンミしないと、仏教そのものも分からないし、お経を上げてもらえば死後安楽などというマユツバ話には乗れなくなるはず。

   法の施しは一切の施しにまさる。法の味は一切
   の味にまさる。法の楽しみは一切の楽しみにま
   さる。愛欲のたちきりは一切の苦しみにまさる。
                   (法句経)
      『法の施し』
   何かの神秘でも運命でもなく
   総ては相関縁起して変化する
   この理法ダンマは真実である
    この理法は釈尊によって施され
    何びとでも会得する事が出来る
    何にもました法味法楽の境地だ
   この理法は仏教者によって施され
   人々の間に広められるべきものだ
   この施しは最上の施しとなされる

  『法の施し』−法を得た者は他にこの法を施し、この法を受ける者は財を施し、両者の施し合いによって仏教は成り立つ。この様に法を中心に施しの実行をする、この生き方こそ釈尊が導かれた、観念論ではない真の仏教である。
      「施し合いの生き方こそ釈尊仏教である」
 縁起の法を信じ、固定観念を離れ、相関互恵を生きる様になれば、自分本位の欲望に振り回されての苦悩などは雲散霧消する。信の世界から実行の世界へ入る事で自己変革の仏教者になる。法の味わいは深まり、喜びは増大する。
 アゴン経という釈尊の言葉を直接伝えた原始経典は、そのどこを見てもほとんどが法の話である。自然界も人間界も含めて一切が相関関係にあり、互いに影響を受けて変化しながら存在するという、もの事のすじ道を明らかにしたものが法ダンマ(縁起法)である。
 普通の信仰は、神仏や天とか、人間を超越した神秘に近いものを偉大とし、それによって支配され守護される事を願うものである。それは立派な信仰でありそれで充足されれば真に結構である。だが中にはどうしてもそうした信仰になれない人も居る。二千五百年前、インドに生を受けた釈尊もその一人であった。そして真の依り所となるものは何かと求めた。まさに生命がけに求められた。
 長年の求道の結果、一切の成り立ち、すじ道を発見された。しかし単にそれだけなら哲学、思想にすぎない。所がこのすじ道、理法によって自己が存在する事、さらに自分白身がそのすじ道そのものであることを会得された時、一大歓喜を経験された。こうして自己変革が完成、その変革のままに生きられたのである。
 一切が相関関係にあって互恵し合うのが真理であれば、自らを他に施し、法を伝え導くことが、法の実行となる。釈尊はそのように法を実行して四十五年間、自らを他に施して生きられた。お弟子たちもその能力に合わせて奉仕に生きていったのである。
 そのような実行に生きるためには、自ずから人間間の生活ルールが必要になる。観念的に救われるだけなら生活ルールなどはいらないとも云える。しかし釈尊の仏教は理想を生きることであるから、ルールをぬきにするわけにはゆかない。そこで最低五つの戒しめが定められていた。殺生・盗み・みだら・うそ・飲酒をしないという事だ。さて、どの様に優れた、あるいは自分に向くような法説であろうとも、真理法と規律法に照らし合わせて、それに反するものであれば釈尊の仏教ではないと、その判断基準を明らかにされた。
 晩年に近い釈尊は、誤伝異説に対してご自分が立会えなくなる事を案じられての事であろう。何という慈悲、ご親切であろうか。