中岡慎太郎と龍馬暗殺 #5

「見廻組肝煎・渡辺篤
今井信郎と共に、暗殺に加わったと、死後、身内が新聞に発表し、龍馬暗殺事件に於いて有名になった人物である。私は今井の証言が腑に落ちないと共に、ある理由から今井の証言は当てにならないと思っていたので、この人物を取り扱った新人物往来社『龍馬暗殺の謎を解く』の渡辺篤の章に於いて、非常に興味を抱いた。

渡辺は臨終の際、遺言として暗殺内容の発表を願い、実際、新聞記事になったのは死後の大正四年である。今井の実歴談「近畿評論」が発表されたのは、明治三十三年であるから、いささか遅いし、今井実歴談を参考にしたのではないかと疑われているものでもある。

新聞記事の内容は、渡辺自身が明治四十四年に書き記した「渡辺家由緒暦代系図履暦書」を、要約したものであるが、その原本は『履暦書原本』として、明治十三年に書かれたとされている。つまり今井の『今井信郎実歴談』よりは前に書かれている。

暗殺現場の内容は簡潔である為、今井との比較は難しいが、相違点として、実行者の一人に世良敏郎という人物を挙げている。その点に於いても、世良が見廻組に在籍していた事を確認出来ず、渡辺の虚言と言われてきたが、近年になり世良敏郎が在籍していた事は確認された。そして、現場に鞘を忘れたのが世良敏郎であるとしている。もし、この渡辺の言い分を信じるならば、刺客がわざと新撰組のせいにする為、原田左之助が使っていたとされる鞘を置いて来たという説も崩れそうだ。今井は渡辺吉太郎が鞘を置いてきたとしているが、いずれにしても見廻組が犯行に及んだのであれば、集団の誰かが鞘を忘れたという事になる。そして、渡辺の書き記した内容からは「坂本先生、お久しぶりです」と、今井が龍馬を斬る前に言ったとされる言動に、一言も触れていない。藤吉に名札を渡し、一緒に二階に上がり、すぐに龍馬に襲い掛かったとしている。この点は、最初に中岡を斬りつけたとする谷干城の言い分と食い違う。であれば、龍馬暗殺が主目的となり得るが、リーダー格は佐々木只三郎であり、それ以外には目的を伏せていても不思議ではないと考えられるので、まだ中岡暗殺が主目的である事は有り得る。それに、斬りつけた中の一人が中岡慎太郎であったことは、後日聞いたという。渡辺自身、中岡と龍馬の区別がついてなかったとも思われる。

そして、黒幕がわざと新撰組のせいにしたとする推測は、結果的には崩れていない。これは後々語る事となるが・・・。

その他の相違点は、近江屋に増次郎という密偵を放ち、龍馬の挙動を探索していたという。その増次郎は乞食の格好をさせて、近江屋の軒下などに潜り込ませていたという。それならば、龍馬がその日、土蔵から母屋に移っていた事や、在宅の有無も、その他の人の出入りも確認できたであろう。

そして渡辺は暗殺後の十一月十九日頃に、龍馬を討った褒美として、15人扶持を月々貰う事になったと書いている。1人扶持は、日に米5合。15人扶持では、一日7升5合となる。この辺は具体的な話である。

実は当初、私がこの暗殺事件関係の本を読み始めた時、実行犯は、ほぼ見廻組という事で、定説にもなっていた。では、黒幕とでもいうべき指図した人間は当然、会津藩主の松平容保(かたもり)か所司代(容保の実弟である桑名藩主、松平定敬:さだあき)であろうと思ったが、幕府の大目付などが命令を下すとも言われている。いずれにしても、黒幕は幕府側という事で決着をつけていいのではないかと思った。実際、大目付の永井尚志(玄蕃)が龍馬と会って親しくなる前に、暗殺を指示したという説もある。龍馬がどういう人物か知った後、捕殺等をしないよう取り計らったが、末端まで行き届かずに暗殺を実行されてしまったという。出自は不明だが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の最終巻あとがきにも、徳川慶喜が龍馬の事を聞き及んで、永井に「土州(土佐)の坂本竜馬には手をつけぬよう、見廻組、新撰組の管掌者(管轄者と同意語)によく注意をしておくように」と伝え、永井が出仕(どこを訪れたかは書いてない)した所、机上に龍馬を暗殺した旨の紙片が、すでに置かれていたそうである。

では、何故に皆が幕府と決め付けないで、諸説入り乱れるのか? 黒幕が幕府の他にいるとするのか?

それはまず、会津藩から直接暗殺指示があったとは考えにくいという事と、事件当日、龍馬が土蔵(確かに土蔵の方が逃げ道を作っており安全だった)から母屋に移った事は、見廻組だけでは知り得なかったとしている所らしい。黒幕の指示により、誰かが龍馬の居場所を知らせた筈としているようだが、前記しているように、増次郎という密偵を放ち、身近な所で動向を探っていたのだから、居場所は筒抜けであった訳だ。それに、わざわざ会津藩系列から直接の指示が考えられないとはいっても、寺田屋(襲撃)事件に於いて、すでに伏見奉行の捕り方が龍馬を捕縛ないし、捕殺しようとしていた訳である。そしてその結果を、京都所司代に報告もしているし、龍馬を逃した後、すぐに薩摩藩に匿われている事を察知し、再三に渡り、薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求している。それだけ幕府側に於いての諜報活動は盛んであり、当時の様々な事件を調べても、幕府側の情報網は凄まじかったといえる。

事件は、大政奉還後であるが故、見廻組には暗殺する理由が無かったと見えるが、慶応三年十一月十五日の時点で、幕府は現状維持のままであり、京都守護職ならびに京都所司代廃止は同年十二月九日であるから、ある意味絶妙なタイミングといえる。それに、龍馬は同心殺しであるから、見廻組としても多分に私怨があった故としたら納得出来るではないか(見廻組は、寺田屋事件の際、伏見奉行所から応援要請を受けて参加している)。つまりは、幕府黒幕でも、もしくは黒幕のいない見廻組私怨でも、いいように思われるのである。

最近の諸説を見渡しても、渡辺篤の話の評価は上がっている。とかく、この暗殺事件に関する史料や証言、新たなる検証に於いて、今まで定説とされてきたものが、間違っていたという事が多すぎる。最近購入した菊池明氏の『龍馬暗殺 最後の謎』を読むと、ほとんどの定説や証言には、まったく信憑性がないものばかりとされている。これでは、何を語ろうとしても、元となる史料や情報が間違っているのならば、事実に近づきようがない。

では、幕府黒幕か見廻組の私怨で、この話は終るのかというと、ある一点の人物、ないしはある藩を黒幕とすると、いかなる偽情報でも、別の黒幕と成り得る存在がいるのである。どうしても、黒幕が必要ならば、というべきか、もしも幕府側に黒幕がいないのであれば、もしも渡辺篤が虚言を言っていたならば、否、渡辺篤が真実を述べていたとしても、ほぼ、全てが結びつくといってもいい程の人物がいるのである。これは当時の政治状況や人間関係を主眼とすれば、あぶりだされるものである。次章では、いよいよその人物を思い付いた経緯について語る。


詩集アフリカ と その言葉達より
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