三宝169号 真の幸福を未だ知らず その二

「法の施しは一切の施しにまさる。法の味は一切の味に
 まさる。法の楽しみは一切の楽しみにまさる。愛欲の
 たち切りは一切の苦しみにまさる。」
  (法句経)
 
外国旅行の経験などまるで無い私は、テレビで外国風景を見ても通一辺にしか感じない。経験による喜びがないからだ。法の喜び楽しさも経験しない人にとっては実感のしようもないであろう。
 
釈尊もまた法を悟ることによって聖なる幸福にゆきつかれるまでは、やはりむさぼりの欲にとらえられる事があったと体験を語られる。私どもは体得者というお手本が無いことには、喜び勇んでその道を追求する気にはなれない。そこに私ども凡なる者の限界がある。
 
釈尊は師匠を持たずして一人で悟られたとなっている。だがその修道中に精神統一の指導者二人について習っておられる。従って師を持たずしてというよりも、師を越えたと考えるべきかも知れない。
 
現代でもインド人は宗教的民族と言われるが、釈尊の当時、多くの修道者が、正統非正統それぞれ独白の道を歩んでいた事が伝えられている。という事は宗教的すそ野が広い事で、それだからこそ、その中から最も優れた釈尊という理想者が出現し得たのであろう。
 
日本の現代の若者がほとんどお金にしか関心を示さないというすそ野では、本物仏教は大海の中の一滴の油みたいなものかも知れない。火をぼんぼん燃え上らせ、人々の願望をかなえてやるという祈祷する信仰が枯れ野に火が燃えついて広がるような現象も、日本的拝金現象というべきかも知れない。
 
釈尊は「むさぼりの欲」が実は苦しみの原因だと、明快に説かれる。ここで日本仏教は欲とむさぼりの区別をしていないミスを犯している。釈尊は質素な日常生活などを問題にしてはおられない。はてしなく広がってゆく欲をむさぼりとし、それを結局は苦悩の原因になると突き止められたのである。何人もの奥さんを抱えていて平静でいられるかと実に具体的に提示される。
  
ではそのむさぼりはどうして起きてくるのか。それは人間とは何か、人間は何を価値として目指すべきかを知らないという、いわば根元的無知がその真の原因だと説かれる。人間を含めて一切は総てが相関し合って影響を受け又与え、変化してゆく存在である、専門語で言えば「縁起する」存在だという事だ。この事は世界のどこにでも当てはまる真理である。従ってこの真理に合う線で生きれば、苦悩の大半は解決してしまうという事を人間の在るべき姿だとするのが釈尊の仏教、「三宝仏教」である。この事の国家的証明を今、ヨーロッパで誰しもが目撃している。力による制圧が苦悩を深め、沢山の人を死に至らせている事を思うと、真理は厳然であると言わざるを得ない。人類四百万年の歴史を通観してみると、いかに総てが「縁起相関・互恵協業」の真理に目覚め、実行してゆく過程にあるかという事が分かる。二千五百年前、釈尊は人類の真理による理想を体得された。そして四十五年間、その法、真理を人々に正導し、法の施しをなされた。そこに最大の聖福があったからである。

  「諸仏のあらわれたもうは楽しきかな。正しき法を聞くは
   楽しきかな。サンガの和合なすは楽しきかな。和合せる
   人々の修行は楽しきかな。」
  (法句経)
 
この様に自らの体験を語られる釈尊ブッダと言われる理想者にまみえる事が出来る様になった事は、私どもにとって何という浄福であろうか。真のサンガはまだほど遠い。だが釈尊に少しでも近づける事を真に喜べる人こそ、三宝の仏教者と言えよう。