三宝 第65号  『仕事の本質』 休息が願いか

「休息が願いか」 左ウチワで暮らせるのが人間の本当の願いでしょうか。今は定年をすぎても第二の就職をしないと、生活が不安定だという。すると生活が出来れば、働きたくないということだろうか。
 
子供がよく仕送りでもすると、あなたの子供は本当によい子で幸せですなとうらやむ。また今の子はちっともよくしないが、戦死した子は、恩給を下さるようにしてくれてあれが一番親孝行だという。

老後は子供によって養われ、親孝行してもらうことだけしか考えられなかったのが昔の人である。

経済的に余裕があれば、盆栽いじりと茶飲み話の御隠居暮らし。今は老人会のお世話、お寺の総代さん。大いに変わってきた。六十を過ぎて再就職している人は、皆生き生きとしている。かえって高年になると、働ける健康さと、充実感が深く味わえるようになるのではなかろうか。
 
しかし、そのためには、身体を使うのではなく、経験や知恵を使う仕事でなければならないから、少なくとも四十代から、その方面の蓄積をしてゆかねばなるまい。かって日本にも盲人の学者がいた。

心にうんと蓄えを持てば、かえって高年になってから、人間の価値はあらわれ、迎えられて生活する位のことは問題ではないのではないか。

私にしても、今いろいろと勉強の範囲を広げているので、七十八十になれば、ますます道がひらけるなあという見透しを持つ。おかけで本代にも大分かけられるようになってきた。その本には片端から赤線を引く。もし将来古本屋にでも売るなら、値段はずっと落ちてしまうだろう。しかし赤線を引いて、自分のものにすれば、もう本代は取り返したことになる。
 
昨日、四Hクラブの農青年に、あなた達は自分に金をうちこんだことがあるかと聞いた。全然ないという。自動車や農機具に金をかけるのも結構。しかし何々研修会といってはすぐに町役場の予算を貰うようでは、本当の研修は出来ない。自分達で身銭を切らねば身は入るまい。

また仲間同士でいくら集まって話しあっても、どうどうめぐりで発展もよい知恵も出てきまい。農業とは食べるもの、生きる基本を作るものだ。だからもっと町の消費者と話しあって、その中から要望を見出し、またこう言うもの食べなさいという指導性をもたねばだめだと思う。

うまいものをほしがるとこれにのみ合わせるから、同じものを作り共倒れになる。もっと必要性を考えること、必要性が価値を生みだす。

収入をよくすることにつながると思うのだが。左ウチワの願いは、結局、働く喜びを知らない人生観の欠乏ということであろうか。

それは老死への焦りということもひそんでいるだろう。

そして忘れられているのは、「低栄養による疲れ」である。デンプン質ばかり食べ、ビタミン類が不足しやすい日本の食事のために、根気がなく疲れやすい。だから老後はせめてゆっくりしたいというのが一番の原因である。

くたびれておれば、悠々自適をあこがれるのは無理もない。そして政治経済つまり社会のせいにしてしまう。勿論それもあろう。しかし一番基本は、自分がどういう生き方をするかということである。これが抜けた民主主義などはありえない。皆が自分を考えてくれるのでなく、自分で自分を責任をもって考える人間の集団が民主主義である。もう子に恩をきせるといった時代ではない。
 
生きる喜び、それは働ける喜びということである。であればいくつになっても働けるために、健康管理と知恵経験の蓄積をはからねばならない。老人対策は、三十才から生涯教育として始めれられねば、全くの後手ばかりで、福祉国家という架空国家を追いかけることにしかならない。
 
休息を願いとする老人福祉国家ではなく、いくつになっても若々しく働ける理想国家を作ることが大切。そのためには少々の物質的貧しさと大いに心の貧しさをもつことが必要。物の豊かさは、心の貧しさをくらましてしまうから。