三宝 第91号 「釈尊仏教の教とは何か」 八聖道こそ中核

 八聖道こそ中核
 
仏教とは人間がその本質に目覚めて、その本質に合ったよりよき生き方をするものである。神秘の力、超自然的な力などによって救われるといったことを目指すものではない。人間が教えられて実際に行うものであるから、誰でもがなし得るものである。
 そ
の為にはまず二つの極端から遠ざからねばならない。二辺とはそれである。その一つは快楽主義。どうせ死んだら魂もない。だから快楽を求めて生きるのが一番いいという生き方。これでは動物よりまだ悪い。その二は苦行主義。永久不変の霊魂を信じ、その霊魂の救済を信じて苦行をすること。これも論理性がなく愚行である。
 
では『中道』とされる仏教の中核は何か。眼で見るようにはっきりする智慧(知恵)心の動揺が納まり完全理解に達したニバーナ覚(仏教者の目的)へ導いてくれるもの-それが中道である。それはたゞ単にまん中とか、ほどほどにとかいったものでもなく、中正、正しい道ということである。その中味は八つの正しい道。

 一、正見(理性、仏敦者の目的)-見とは見解、考え方。それは前項で、縁起、真理、正法という正しい真理観と解説したもの。
 二、正思(感情、仏教者の目的)-正しい真理観を土台にして高められた安定心情。激しい欲望感情や怒り、嫉みなどの悪感情を持たないで、より互恵的な善意などの心情。
 三、正語(言葉、正しいことを正しく言う)-特に四つの悪い言葉使いをしないこと。その四つとは、うそ、悪口、かざり言葉、和を乱す言葉、この四つは特にさけねばならない。人間関係の重視。当然その反対の善い言葉使いが要求される。
 四、正行(規律)-五つの規律が最低は要求される。殺さない、盗まない、男女関係をみだらにしない。うそを云わない、酒を飲まないの五つ。出家求道者はさらに現金を受授しない、蓄えない。物の生産をしない、(托鉢による一日一食)など加わる。これは苦行ではなく、身と心を守り、人と調和し、静思に入る自己調整の道徳。
 五、正命(生活)-人間としてのなすべきことをしての生活。
 六、正精進(努力)-この八項目すべてにおいての努力。
 七、正念(集中、記憶)-仏教目的に対して、記憶し強く思い、続けて忘れず、そこに精神を集中する。
 八、正定(深識等和)-仏教目的に対して精神の集中が進み、深層意識の状態となり、自然界一切と等しく相和する。真理法として教えられたものが、心底において納得され、自己との一体化が生じる。

従来これは精神統一とされてきたが、何に統一されるのか不明確であり、正念と重複する。実践的に解すれば集中を通りこして、一体化、等和無差別の(自然とその理法において)状態とすべきである。
 
以上が中道の中味とされるもの。これをものごと一切にあてはめ、『解決原理』としたものが『四聖諦』、仏教の特長を明らかにしたものが『三法印』などがあるがいずれも仏教の目的-真理の学習、体験を意図したものである。釈尊はねんごろに『八聖道を受けつぐ最後の人となるなかれ!』と云われる。

この八聖道をよく学習することによっていかにそれがまれに優れた人間学であるかということが分る。そしてこれを徹底して実践しようとすればいかに容易でないかということも思い知らされる。出家求道のはまりを持たないで、仏教目的を達成することは出来ない。
 
この正式の正法体験の道を知り、これを実践する求道への絶大なる尊敬と信頼、それからくる供養支持、あやかりたい、いつかは自分もそうした境涯になりたいといった希望を持ち、そうした内容を持つことで安心を得るのが信者の道である。