仏教による幸福への成功方式 #79(第十章ダンマ 仏心 四大と死)

四大と死

人間は正覚すれば不死であるという。いや不死を正覚するのですが、では一体死とは何か、世尊はこう教えられました。
 
   知-骨、内蔵等カルシュウム、蛋白質その他             
   水-目汁、鼻汁、血液、淋巴液等の水分     四
 空 火-体温、食物消化による熱エネルギー       身
   風-空気、酸素、炭酸ガス等          大  五
   識-心                         心
                             大
 
この四大、五大のわけ方はごく単純でありますが、これで結構肉体の構造を知ることができます。食物と水と酸素が肉体の條件ですが、血液の中から分裂した精子卵子の結合が栄養をとって分裂し母体外に出て食物と結合し、細胞が分裂増加して肉体は育ってゆきます。血液や食物が肉体に変化してゆくのです。これを因縁による假の和合と言うのです。一方こうした肉体と同時にある識(心)はこの肉体を支配する念として、眠りを條件として成長しますが、通常未完成のまま肉体に支配されて終わろうとします。和合したものは離散してもとに帰るのが自然法です。しかし欲にまみれた何十色かの生の悪癖と煩悩がこの肉体が自然に帰ることを望まず、はてしなく肉体による享楽を求めようとします。しかしどうしてもその享楽を捨てねばならないので欲求不満つまり苦となります。この苦を伴った肉体の離散が死苦(死)であります。肉体を捨てるのが辛いのでなく、肉体をなくすことによって享楽が受けられないのが苦しいのです。この享楽を求められないと思い込むと別の楽を求めて自殺をすることも起きるのです。これは心のゆがみによるものだから成仏とは言えません。しかし享楽を捨てることの不満、死後への不安などすべて無明が原因ですから、慧明を体得すれば、肉体への執着は消えて苦もなくなるのです。正しい覚りによって捨てる時に肉体を捨ててもとに帰せば、死苦はないからそれを不死と言い肉体のあるなしによって心の変化が生じないわけです。こうして肉体は空に帰ります。空の働き、求心運動の一途中として無明が物化されて肉体となりましたがその肉体がある内に心は無明を慧明に転換して再び空に帰り、次の物化の一因とならずに、まことの仏陀の念に一体化してゆかねばなりません。こうして輪廻の輪から抜け出すことが人間のまことの生き方なのです。精々八十年しか使えない肉体を活用して早く肉体を必要としない仏陀とならねばその一生は無駄となり、次の生を繰り返さねばならないのです。こうした再生にはとてつもない苦が待ち受けているわけで望ましいものではないのです。
 
この四大假和合と離散は詭弁でもなく分かりにくいことでもないのですが、感情的にどうもしっくりしないのです。そこで何年もそれをしっくりするところまで信仰せねばなりません。死ぬ間際のつけやき刃では間に合わぬことになります。

「耳ある者に甘露門は開かれたり。彼らをして邪信を捨てさせよう。従来の教主はあやまれる考をもち、人々に対して微妙の正法を説かざりき」
(パ-リ律大品)

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