仏教による幸福への成功方式 #78(第十章ダンマ 仏心 入滅を何故されたか)

入滅を何故されたか

世尊は八十一才(或いは八十才)で肉体を捨てられたのですが、お弟子達はこの理想的人格完成者である仏陀が、何故神通力をもって持ちこたえることが出来ず、凡夫と同じように死なねばならぬのだろうか、それではありがたくないではないかと疑問と不安をもったことでしょう。それでこの疑問を解く為に世尊は解説されました。肉体は亡びてもとの土に帰るのが自然の理である。しかし仏陀はその肉体的制限をこえた自由と絶対のものであるから別になくなるということはない。だからまごころをもって恋い慕い、生命も捨ててかかるほどの渇仰心をもった者には、いつでも仏陀を覚らせてやれる。もし目に見えるように感じたい者にはその人の熱心さによってお姿も見させてやる。だから精進して仏陀を求めよとはげまされるのです。仏陀は時間的にいつから成られたということもなく又今後も永遠のいのちとして存続してゆくのです。
 
初め、救うて頂く、仏陀と自分と別々に存在し相対的に考えるものです。仏陀が絶対であってそれに相対する衆生がおるというのは矛盾です。この西洋的観念では覚れません。絶対の他者と思うていたのは無明であって、実は絶対などない吾等と平等の仏陀があるのです。ところがどうしても私共の無明心が仏陀と平等などとは勿体ないといって拒否するので苦となります。この無用な突っ張りを捨てると平等感がのぞけてきます、と同時にまごまごしてはいられないとなってきます。奥の心が無明→仏性→仏陀と啓発されてゆくのですが別のものに転換するのではないのです。人間が仏陀になるのです。いや人間が仏陀という本来の姿にかえるのです。もしこの啓発ができず真実の体験とならぬならば何度でも生まれ変わってでも勉強し直そうではありませんか。
 
常在である仏陀が何故身をかくされたか、それはみ仏がいつでもおられると思えば、つい怠けて苦しい時は走っていっておすがりすればよいと精進しないから、わざと姿をかくして悲しませ、まことにみ仏を求める心を起こさせる為だと言われました。又肉体は縁起の原理によって変化してゆくことを自らの肉体で示されたわけなのです。そして人類としての理想、大智大悲による寿命無量、慧光無量のみになられたのです。これが仏陀です。肉身を何百年も伝える不思議もなく誰でもなれる道を示されたのです。アミダ仏もビロシャナ仏も皆、そうなのです。仏陀仏陀は同じ平等なのです。仏陀の異なる点をひろい上げるということは凡夫の小ざかしさなのですね。「家も建ってから久しくなれば、皆こわれるであろう。けれども大地はいつまでも安らかである。私の身は古い家のようなもの、心は大地のようなものである。身は病いの為に危いけれども心は常に安らかである」。そしてやがて三月後には、この身を捨てるであろうと予告されました。私共も肉体との別れを自分の意志によって決めることは素晴らしいことです。実際お弟子達で世尊にお許しを得て、自ら肉体を捨てていった方々も多いのです。これは当然他につくすべきことをつくしてのあがりであったのです。
 (実例)山本玄峰老師が九十六才で断食によって人生の幕を閉じられたことが大法輪昭和卅六年九月号で発表されています。


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