仏教による幸福への成功方式 #77(第十章ダンマ 仏心 最大の理想)

第十章 ダンマ「佛心」(成仏原理)
                      
 我、佛陀となりてより、すでに無量百千万、無限の年数へたるなり、常に法を説いて無 数億の衆生を教化して仏道に入らしむ。衆生を導かんが為に方便をもって涅槃をあらわす、されど実には滅度せず。常にここに住んで法を説く。

 神通力をもってあやまれる衆生、近くにあれども見えがたくす。衆生我が滅度を見て、ここかしこに舎利を供養し、皆恋いしとうて渇仰の心を生ず。衆生信伏し、柔和正直にして一心に仏陀を見たてまつらんと願い、自らの身命を惜しまざれば、その時に我及び衆僧共に霊鷲山に出ず。

 衆生の業つきて大火に焼かるる時も、我が国は安らかにして天人常に充満せり。林やみ堂も種々の宝をもって飾り、宝の樹には花も果実も多くして、衆生はその中にて遊び楽しむ、神々は天の鼓をうって常に妙なるしらべをなし、天の花をふらして仏陀及び大衆に散らす。我が浄土はかくの如く破れることなきに、大衆は覚らずして焼かれ愁いと恐れ、苦しみ悩み充満すと見る。この罪の衆生は悪業の因縁をもって、はてしなき時をすぎても三宝のみ名を聞かず、あらゆる功徳を修め柔和正直なる者は、皆我が身ここにあって法を説くと見る。

 或時はこの衆の為に仏寿無量なりと説き、久しくたって仏陀を見たてまつる者には、仏陀には逢い難しと説く、我が智力かくの如し。智慧照らすこと無量に、寿命に限りあらざれば久しく行を修めて分る所なり。

 汝等智ある者、疑を生ずることなかれ、仏語は実にしてむなしからず。良医が善き方便をもって狂児を治さんが為に、実にあらざれど死せりと言うは偽りでなきように、我も又世の父諸の苦難を救う者なり。凡夫がさかさまの考をもつ故に、実にあらざれど我滅すと言う。

 常に我を見るなれば、おごりの心を生じ怠りて五欲に執着し、悪道の中におちるならん。我常に衆生の道を行じ、道を行ぜざるを知って、それに応じて種々の法を説く。常に自らこの念をなす。

 いかにして衆生を 無上道に入らしめ
 速やかに佛心を  成就なさしめんと。

最大の理想


無限のいのち-仏心-とはただ石ころのように自然として存続してゆくというだけではなく、物欲におしひしがれて苦悩に満ちた人々を何とか救導して、無上の道、即ち仏陀の道に入らせ、まことの仏心を体得させようという念願をもって、実際に種々に身を現じて或いは身を現さずして、人々を導くという施行を永遠になされるそのみ仏の心のことです。
 
幼稚園にいっている子供は、親が見えないので心細く思ったり、或いはすっかり忘れて遊ぶこともあるが、親の方は片時もその無事を祈らずにはいられないその親心こそ仏心に通じます。仏陀の道、苦滅の原理についてはすでによく習ったところ、後はその親心を私共も受けついでゆくべきで、いつまでも子供のように甘えていてはいけません。信仰の喜びの体験が出来たならばその御恩返し、仏陀の心を心として、他の人々のさとり安心の為のお手伝いをしてゆく時に、私共は仏陀の慈悲施を受けついだ仏子であるという自覚が出来上がって参ります。この仏子の自覚をもって、我が身のことを忘れてひたすらに、他の救導に打ち込んでしまえば、その時はもう仏子の自覚すら忘れて通り越し、単に人間の肉体とほとけ心という分裂をもったところでなく心身共に仏陀という無限の慈悲施になりきってしまうのです。これが成仏です。
 
この広大な慈悲施は素晴らしいエネルギーですから、身の方は恐らくついてゆけず燃えつきてしまうでしょう。そうしたら肉体の制限を受けず、全く自由に時間的にも場所的にも無限の救導活動が出来るわけです。
 
ダンマ「仏心」は、あらゆる衆生に、仏心を得させたいという仏陀の念を示してあります。この仏陀の念をうけつぐことによって成仏が出来るので、ダンマ「大慈悲」のまごころで信じ楽しみ浄土に生まれたいとよく念ずる者は、必ず生まれると言われた仏陀の精神と同じ大慈悲の念なのです。
 
従来、空になりきることが成仏などと抽象的な論議もありましたが、それは諸法実相という現象面のみをとらえ、それになりきることを理想のように思い込むのは、未だ哲学のうちで宗教となっていません。この実相の体得が必然的に仏陀の、すべてに仏心を得させてやりたいという大慈悲を感得できて初めて、理想をしっかり持つ宗教となるのです。沢山の宗教家がこの仏心を正しく受け継いでこられました。この仏心は理論のみで感得できるものではないのです。しかし原理をぬきにすればますますごく特殊な善因を受けた人のみしか感得できないことになります。私共はこの成仏原理に至る一連の仏教原理によって理性と感情を養成するならば、そして善縁にふれるならば突然の感激となって、涙のように心を洗い清められた尊い仏心に転換するものです。そして浄土化という無限の理想活動へと飛び込ませて頂けるのです。それは煩悩をなくしてからそうなるのだとか、煩悩をもっているままでそうなるのだとかいった議論をはるかに超えた施そのものなのです。ですから喜びも悲しみも何もかもなくなって施だけがあるのです。この短い「仏心」の中に汲んでも汲んでもつきない味と教えがこもっているのですが、簡単に八つを抜き出してみましょう。 

 一、久遠仏-時間を超越して常在するのが仏陀であるということ。
 二、恋慕により出現-常識では世尊の入滅を見るが恋慕心のみが仏陀の常在を感得するということ。
 三、浄土相は精神界では完成しているということ。
 四、不覚の衆生は焼かれて苦しむということ。
 五、その苦因は三宝を知らぬということ。
 六、仏陀の寿命も慧光も無量ということ。
 七、世の父であり、常に正法をもって救導するということ。
 八、仏陀の念が実在し、ここに成仏の論拠があるということ。
 
これらの点でただ素晴らしいというより他ありません。仏陀は永遠の実在であり、浄土は完成しているが、衆生三宝を知らぬ為に、念を低劣に物化させてはてしなく苦しむ。故に身をかくして恋慕心を起こさせ正法によって救導して、念を浄化させるこれが仏陀の念であり、この念は物や現象、衆生の心、すべてを具体的に動かして、あなたに善縁をつくり物的支配からあなたをときほぐして、真実の精神界へと導かれるのです。この衆生の念の物化よりも、仏陀の念の働きかけの方が段々強くなり、今日に於いてはまことに大衆が仏陀の精神を理解し易くなりました。人はこれを科学と教育のおかげというでしょう、しかし仏陀はそれらを通してまことの生きぬき方をさとらせるべく念じておられるのです。悪魔的な兵器という物化があっても仏念によって必ずそれらは浄化されるでしょう。この仏陀の念を受け継ぎ仏陀と正法と正僧伽の三宝を明らかにすることが、この精神界で完成されている浄土を、このみにくい苦の世界と一枚化して、苦滅の浄土化することがまことの理想の完成なのです。分かり易く言えば地球上の浄土と、地球面の衆生苦とが二元的にあってはならないので、それが一元化され衆生すべてが苦滅するときに初めて、仏陀の念は安まるのです。この仏陀の念は私共の先輩の成仏した念を加えることによってますます大きな念のエネルギーとなってゆきます。人類の心の無明の雲はますます薄れて、世尊が世を照らされた第一の夜明けのように、今や第二の夜明けが近まりつつあるのです。私共は何とありがたい時にめぐり合わせたものでしょう。{この仏心の境地を大智の面で見れば、多くの経典は無上正偏知(アノクタラサンミヤクサンボダイ)と表現してあります}


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