勤労の聖僧 桃水 #32(6、禅林寺時代 その七)

聖僧、禅林寺脱走後の足取りに就いては分明ではないが、間もなく、聖僧の姿は山城、宇治の黄檗山に現れた。
 
いうまでもなく、山城、宇治の黄檗山は、聖僧と一度会見したことのある隠元禅師の開基した寺である。
 
聖僧の黄檗寄寓期間は、凡7、8年であろう。この想定は、田中氏の想定で私は、その想定は正しいと思う。
 
しかし、聖僧、黄檗行に就いて、田中氏は、御想像を述べられて、―
 
『彼が円調法衣の僧侶生活の無意味に気付いて、余りにも長く忘れていたと云うよりも、寧ろ彼の知らない風俗の世界に立ち帰るには、そして社会の下積みとなった乞食の群に身を置くまでには、今一度彼はその老齢の身を投げて寺院に於ける最後の試練の過程を辿っている』
 
といっておられるが、私は、聖僧の黄檗行きは、単に、堕力的のものだと想像する。
 
恐らくは、田中氏の御想像の根拠は、次の如き点にあるであろう。
 
聖僧は、それよりは後年に於いて、愛弟子の天岩と遼雲とを黄檗に送って、この二人に対する指導を高泉禅師に託している。高泉は黄檗中興の祖である。故に、聖僧は、僧侶としての最後の試練を、黄檗―異国僧侶の群の中に於いて試みようとした―と想像せられるのであろう。
 
しかしながら、それならばなぜ、長崎に於てなされたる隠元禅師との会見直後或いは同じく長崎に於てなされた、高泉禅師との会見直後に、黄檗の人とはならなかったのであろうかという疑問が起こって来る。
 
この疑問に対して、自問自答する方法としては、―

(1) 聖僧は、その時代には、いまだ黄檗の人たらんと欲する程には、仏教
思想的に成長してはいなかったゝめであろうか?
 
しかし、この場合に於ける、仏教思想的という言葉に就いては、それを如何に意味付けるべきであろうか?
 
一口に仏教といっても、北方仏教もあれば、南方仏教もある。印度仏教、支那仏教、日本仏教の別がある。
 
同じく禅宗といっても、曹洞宗黄檗宗とでは、そこには、宗風の相違がある。―としてみれば、仏教思想的に観る場合には、黄檗宗風は、曹洞宗風よりは一段高い。故に、当時は、曹洞宗の僧であった聖僧は、いまだ、黄檗宗風に入るだけには、仏教思想的に成長してはいなかった、故に、禅林寺脱走以後、最後の仏教的試練を黄檗宗風に於て問うところあらんとしたのであろうか?
 
しかし、仏教思想的価値に於て、宗風の上下を問う場合には、理論的に観てその価値を問うのか、実践的にその価値を問うのか?
 
聖僧は、その当時は、理論的に観て、黄檗宗の持つ仏教思想的価値を認めたが故に、黄檗入りをしたのか?
 
若し、後者だとするならば、それ程、黄檗宗の僧侶は仏教思想を実践化していたのか?

(2)或いはまたは、黄檗宗の僧侶は、他の仏教僧侶よりは、仏教思想に於て、
稍々、実践的であった、聖僧は、そのために一時黄檗山に身を落付けることにしたのであろうか?
 
私の想像は(2)と等しい。何となれば、鎌倉時代以後に於いては、仏教上の新しい宗派は起こらなかった。徳川幕府は、キリスト教の全滅を計るために、仏教に対して特殊的の保護を与えた。そのために、仏教上の各宗派間には激しい勢力闘争と共にそれに伴う我執、偏見、嫉妬が生じ、僧侶は腐敗、堕落の極みに達した。
 
現代は、社会情勢の変化に伴い、もはや、僧侶は寺院の人としてのみでは生きられなくなってはいるが、如上の如き傾向は一掃されることもなく引き継がれていることは事実である。故に、如上の傾向だけに就いていうならば、徳川時代の初期とそれの中期とに於て大差あらざるものと断定してよいであろう。
 
としてみれば、私は茲に良寛禅師の詩を掲げてもって、聖僧は、当時の仏教界に対して、否、範囲を狭めて、当時の禅宗僧侶の生活に対して、斯かる観察眼を持っていなかったかどうかを検討してみよう。
 
良寛は、年令25、6才頃から37、8才迄に亙るまでの間に、既に、次の如き詩を作っているのである。
   
 落髪して僧伽となり    食を乞うて聊か素を養う
 自ら見るに已に此の如し  如何に省悟せざらん
 我出家の児を見るに    昼夜浪に喚呼
 祗口腹の為の故に     一生外辺の鶩となる
 白衣の道心なきは     猶尚是れ恕すべし
 出家の道心なきは     之有相の色を壊る
 恩を捨てゝ無為に入る   是等閑の作に非ず
 われ彼の朝野を適くに   士女各々作あり
 織らずんば何を以てか衣  耕さずんば何を以てか哺わん
 今釈氏子と称して     行もなく亦悟もなし
 徒に檀越の施を費やして  三業相顧みず
 頭を聚めて大語を打き   因循旦暮を渡る
 外面は殊勝を逞しうして 他の田野の嫗を迷わす  (以下略)