『死縁』 -死を根底とした行き方- 臨死 (3/4)

『荘厳なる死』
死というものは一つの足音を持っている
それなのになかなかそれが聞きとれない
心がまるであらぬ方を向いているからだ
 死というものに馴染みを持たねばならない
 あまたの他人や肉親のそれを通して
 必らず自分の上にやってくるものだからだ
死というものは一つの荘厳さを持っている
どのような弁解も許されないからだ
明確な対応を迫られるものだからだ

  臨 死
 
鹿児島の冲、島と島の間で、待ち受けていた敵潜水艦の魚雷が命中。日本の目と鼻の先どころか、領域内で完全にやられる。十二隻のうち、人間(荷物扱い)が乗っていた三隻が狙われ、一隻だけが傷ついたまま佐世保に逃げ帰ったそうである。情報のつつぬけというわけだ。この当時ですらお偉ら方は本土決戦などと軍刀を握りしめていたらしいから、少々あるいは大いにオカシイではないか。 一斉に海に放り出された、などというといかにも勇ましいが、そんな格好いいものではない。ドボンドボンとめいめい夜の暗闇の海に飛びこむ。そして間もなく、心臓マヒを起した者たちであろう、救命袋の下に頭も出さず沈んでいる。まるで泳げない私が、イカダに乗ったり、材木につかまったりで、明け方にタンカーに救助される。無我夢中ということであろうが、この間七時間、まるで長いとは思わなかった。死への恐怖もなかった。異常な時には、異常な心が支配して、自己破壊から自分を守る、それが生命なのだろう。まさに悪夢のような一夜が明けて、裸に近い形でしばしの眠りから目を覚ましてみると、私の横に寝ている者が死んでいる。顔などが紫色にふくれ上っている。助け上げられた後で死んだのだ。生命に縁が薄かったとでも云うより外はない。
 
イカダの上で目がかすみ、もうろうとなっていたのに、死ななかったという事は、実に有難いことではあるが、その生を有難いと思うようになるまでには、こうした経験だけでは不足だったようだ。 戦争体験は風化せぬうちに語りつげ、とよく云われる。確にそれも必要だ。だが私の場合は少々違う。私は全然闘っても、争ってもいないのである。別に冗談めかすわけではないが、命ぜられるままに兵隊になり、鉄砲の打ち方も習わず(何しろ部隊の一個班に衛兵用の二丁しか無かった)、命ぜられるままに乗船して遭難し、救助されたのだから、まさに遭難という感じが強い。従って私には、それが戦争というよりもヽ死への近接、臨死という事になるのである。 
 
いずれこの時の模様は別記せねばならないが、今は私に迫ってくる死という事実の連続、という点にしぼる。
 
敗戦間もなく、二十二年の一月、小さな伝馬船で荷を運んでいた両親は、突風にあおられ、三角の海岸で同時に遭難死した。それこそあっという間の出来事である。その転覆の様子を山のてっぺんで見ていた人がいる。後にその死を知らされてお骨を受取りに行く。それは母であるが、村人がはい上ったままで倒れていたのを発見、お医者があと一時間早ければ助かったのに、という事であった。上半身裸になって泳ぎついたのだが、寒さにやられたという事である。
 
生命に縁が薄いということは、こういう事なのかも知れない。村の青年団に焼酎と米でねぎらって、お骨を持ち帰る。 

父は懸命に泳いだに違いない。しかし冷たさと、渦を巻いて噴き出してくる瀬戸の引き潮に押し流されたようだ。外海に出かかる所を二十一日目に発見され、岸に引かれてゆく。知らせを受けて行った私は、砂浜に仮りに埋められてあった死体を取り出す。両足を握って炊き木を積んである所まで運ぶ。まるでゴムまりのようにぶよついてふくらんでいる。頭部はすでに白骨化し目の玉は無く、視神経だけがダラリとたれ下っていた。六時間のマキによる火葬がすみ、ぬくもりのある骨を拾い収めて持帰り、心ばかりの葬式をする。世なれない二十三歳にとっては、戸惑うことばかりである。
 
まる一年してかねて心臓が弱っていた祖父が、眠るがごとく去っていった。たった一人の孫である私を残してゆくことが、気掛りであったのだろうが、それを□に出すこともなかった。
 
すでに熊本市内に出ていた私は、金に困って頼ってきた友人と、それではというのでヤミのデンプン作りを始める。初めはもうけたがヤミなるがゆえに行きづまり、この友人は胸の病いを再発、まさに骨と皮ばかりになって短い一生を閉じた。
 
私には体力もない。身内もいなくなった。勿論財産もまるでない。学歴も経験もなく、後だてになってくれる人もない。そして家もなく、職もないのだからそれこそどうにもならない。ある方が結婚をすすめてくれた。二人口なら何とかなろうというわけだ。ところがこのささやかな結婚も、結婚とさえ云いようのないものになった。
 風邪がもとでやがて三十八度の高熱が続き、意識がはっきりしないようになった。医師も原因が分らないという。ある友人にすすめられて、霊感者の所にお参りにゆく。感応の不思議なお知らせなどを受けるが、お参りにいっている最中にこの人も亡くなる。

結婚して三十九日目に亡くなるのは、あまりにもアッケないことであり、本当の深い悲しみになるという事でもない。こうして身近な者の死が次々と続いては、いかにそのそれぞれの死が、私に深い心の傷を作らないにしても、やはり考えこまざるを得ない。昭和二十三年、二十五歳である。この次に死ぬ者があるとすれば、私以外はない。こうして最後の人の死を縁として仏教の信仰者になった。
 
それは身近な者が死にかかっている、それを何とかしたいという祈りからのもので、何一つ宗教理論を聞いたり理解したりしてのものではない。まさにせっぱつまって飛び込んだ世界である。きれいごとの宗教などというものではない。このように苦しまぎれに信仰に入るというのは、いかにも世俗信仰、ご利益信仰のようではあるが、自分の意志で、それを求めていったという点においては、信仰への機縁としては、むしろ正常であったと云えるかも知れない。
 
それからの宗教的歩みはともかくとして、こうして私は、多くの人の死を縁として、それらの縁を活かす事になったのである。
 
たいがいの人が相当の年令になれば、死に縁があり、何らかの感動を受けるであろうが、その死縁によって宗教に深入りするようになる方は、ごくごく少ないであろう。その点て云えば、私は恵まれた者だということになる。こうして私は、仏教者になってゆくわけだが、その仏教の教理とは一応関係なしに、仏縁をあらしめてくれたこれらの人々に、というかこれらの死に対して供養をするのである。私のささやかな、三十年に近くなろうとする心身運動というか啓蒙運動も、その大半はこれらの人々に供養としてささげられるものである。従って世の偉大なる宗教家のようになる事はない。せめて死縁を活かすことが出来ればと願う位のものである。