『死縁』 -死を根底とした行き方- 死から始まる生 人間は死において平等(4/4)

        「かり立てられて」 
      血縁が人よりも薄かった私は
      中学生ごろから虚しさを感じていた
      それが本当の充実へと私をかり立てたようだ
       生きている意味が分からないことには
       生きていてもしょうがないと感じていた
       それが意味の発見へと私をかり立てたようだ
      肉親が次々に死んでゆき
      この次は私の番だと感じていた
      それが宗教の世界へと私をかり立てたようだ

   死から始まる生
 
死という事と死の事実は人次第で格段の違いをもって受けとめられるものである。私をめぐる死についてあっさりと略記したのは、それが持つ事実の重苦しさに、多くの方が不快になる事をさけるためである。死の事実は確に重苦しいが、死という事は必ずしも苦しさを伴うのではない重さがある。人によってはこの方が、その人が生きる上において、より大きな意味合いを持つ。
 
私たち凡なる者が死の事実を「お悔み」として、なるべく上っ面ですまそうとするのは、生きるためのエネルギーをそれによってそがれまいとする、無意識的な自己防衛であろう。
 
しかしもう一つ踏みこんで考えてみると、事実としての背後にある「死という事」にどう対処してよいか分らないという、漠然とした不安感や焦想感があるから、事実としての死を、早々に済ませようとするのではなかろうか。廻りくどい表現になったが、要するに死という事の意味がつかめないならば、人は死をさけたくなるはずである。だがそれは死に対して申訳けないことだ。

 
釈尊は、産みの親が産後七日にして亡くなるという事実に遭遇しておられる。こうして子供の頃から、人は何故死ぬのかという疑問を持った。それが後年二十九歳での出家求道となる。多くの仏教学者が、愛欲からの脱却を覚りと解釈しているようであるが、それはいかがなものであろうか。その学者氏が未だ死と死の事実に遭遇していないとしたら、その人は生の立場にあると云えよう。生はまさに愛欲であり、その大半が性愛である。この立場から釈教を解すれば、煩悩からの解脱を説く仏教が性愛を主テーマにしていると、受け取られるであろう。仏教は人生のいわば全面を包含しているからそのように取っても別に不都合はない。
 
だが釈尊が云われる煩悩は、理性感情その両面・にわたるものであって、単に性愛の感情克服をもって足りる、とするものではない。
 
煩悩の中の欲とはむさぼり、つまり必要以上の激しい欲望のことであって、何も性愛欲に限定されるものではない。現に今日でも、もっとすさまじい欲望に狂気している者を沢山見ることが出来る。
ひっくるめて云えば、生そのものへの愛着である。実はこっちの方が一生ついて廻る大問題なのである。
 
「死にあらざるさとりヘの道を見ずして、百年生くるよりは。死にあらざるさとりへの道を見つつ、一百生くるがすぐれたり。」これこそ「法句経」にある釈尊の実言である。しばしば釈尊はこの趣旨を述べておられる。「われ不死を正覚せり」と。これは死の事実の克服ではなく、人類に与えられている永遠のテーマ、「死」そのもの解決という事である。ここから真の生か、つまり今迄の生
と全く違った次元の生が始められるのである。生物生理の生から、本質自覚の転換された生となるのである。

  「死という事の意味」
遺伝子DNAなどの研究が進んで
生命を中からかなり見えるようになった
総ての生物は同じDNAで成り立つという
 死もまた一切の生物に平等にあるが
 人間はその死に意味付けをしようとする
`死を単なる自然とはしたくないからだ
いかにも平等に与えられた生死の中で
人間らしさの可能性を探ってゆく
それが死という事の意味ではなかろうか

  人間は死において平等
  
もし生命に死が無いとしたら、その生はどういうものになるであろうか。今日はバイオテクノロジーに入ったと云われる。大腸菌に よって人体インシュリンが出来だしたからだ。産業界が色めき立つ のもムリはない。だが食のゼイタクをせねば別にそのような体外の ようなものでなく、自然体で充分に間に合うのである。生物学的には遺伝子組替えはまさに画期的なことではあるが。

このように生命の解明はいよいよ本格化してきた。だが死の解明`はとんと手がつけられていない。それはやはり宗教者に任せられる 事なのであろうか。宗教というとすぐに霊の、それも死後霊の問題と考える人が多い。確にそのような指導をする団体も多いが、釈尊 の宗教はそれらと異なる。死後霊的なものを皆無とするのではないが、比重はその死そのものの意味、それからくる生とのつながりにおいて考えられる価値にあるのである。生きている時の延長のような死後の安楽を問題にするのではない。

生物、特に人間が一応、死という形で、現在の生存を絶ち切られなかったらどうなるか。それはもっと激しい欲望闘争の世の中となるであろう。それは開発途上国の人において物質欲が少く、発展国において宇宙までもわが物にしようとする欲の大きさを見ると分かる。一応死という形でその個人の欲望に制限がつけられる。人間の知識がそのまま別の赤ん坊に受けつがれず、子供は初めから覚えねばならないという事によく似ている。死があるから人間は化物にならないで済んでいるのだ。
 
信三師は「人生二度なし」と云われる。この事は頭を冷やせ、理知感情ともにカッカするなという事にもなろう。死があるが故に人類は生を考えるようになった。孔子様は「生を未だ知らず、どうして死を知ることが出来ようか」と云われた。これは一つの逆説ともなる。死を知り難いがために、生を真剣に求め、かつ充実させねばならないのだと。ここに東洋的な生への比重感がある。
 
まことに奇妙な位に、死というものが誰にも例外なく与えられている。死という点においてまさに、人間平等なのである。人権平等という事は死も平等ということなのだ。生きる事に平等という発想をする時、何びとが死もまた平等と考えるであろうか。民主主義の思想がいかにも現代的ではあるが、こうした欠落を持つということにおいて未成熟思想と云わねばならない。それは権利云々などとは較べようもない価値比重をもつのである。そしてそれへの対処をまるで教えようとしないのが学校教育だとしたら、それは文明文化かも知れないが生き方にはならない。死のない生は皆無だからである。
 
生は死によってのみ。本質価値化すると云っても云い過ぎにはなるまい。それなのに、現代はあまりにも死と遠い所になった。