『死縁』 -死を根底とした行き方- 遠い死 近い死(2/4)

遠い死
 
中学の四年早々で中途退学をしてしまった私は、父がやっていた飲食店の従業員、一つ歳上の娘さんと親しくなった。一人息子で兄弟ゲンカなどまるで知らないものが、身近な異性に心ひかれるのは当然すぎることであろう。交換日記というよりもただ一冊の日記帳に書き込み合うというのだから、啄木のまね式叙情ということだ。かの女のエンビツ書きを添削していた事を今思い出すが、今日も小学生の子の硬筆指導をした事と、やはり一種の因あり縁ありという事になるのではなかろうか。
 
宙ブラリンの二年ほどが経って、両親は店を売り払い、中国北京に渡航するようにした。すでに戦時色が深まってきた昭和十五年である。私もそれに従って熊本へ帰る。十七歳の時だ。
 
唐人町の叔父の店は半エリ専門店であったが、仕事もないままに、住込みで店の手伝いをさせて貰う。少しは馴れたという頃、先の娘さんの義父という方から連絡があり、別府海岸で自殺をしたという。
 
大阪あたりで働いていて、熊本に来たいがという便りがあったが、どうにもならない状況を書き送ると、そのまま音信不通という事であったが。胸を患っていた事や、義父に何かとつらく当たられる事や、先の希望を見出せないままにという事であったのであろう。
 
数え年十九、九月九日がその命日である。このひとは私に関わりもあり、心に負担も感じねばならないのであろうが、その死に直接していないという事で、私自身が死を考えるというふうにはならなかった。勝手と云えば勝手だが、自己中心というか、若さというものが、死というものをはるか彼方においている、あるいはそれが自然と云ってよいのかも知れない。

近い死
 
昭和十五年も末になると、日本の軍部は戦争の大規模化を考えていたに違いない。第一回の徴用工員として、いわゆる白紙召集で’三百人の中の一人として熊本から佐世保海軍工廠に行く。翌十六年には飛行機部が、第二十一海軍航空廠として独立。そこで敗戦まで人事係事務員として働く。敵機空襲があるまでは単調なソロバン計算の毎日。その間に祖母の死がある。産まれてから六歳就学まで、田舎で母親代りに私を育ててくれた祖母である。忙しいまま、その葬式にも帰らなかった。それは育てられた記憶がほとんどない祖母の、私にとってはまだ遠い死であったのだ。
 
十九年二月、陸軍の太刀洗部隊に第一乙補充兵として召集される。今度は本物の赤紙召集というわけだ。さほどの気張りや嘆きもなく、と云って淡々としたものでもなく、職場からそそくさと汽車に乗りこむ。その汽車の中で初めて開いた軍人勅諭を覚えねばならない。何しろ石川達三の「結婚の生態」などを読みふけっていた私は、にわかに、軍国主義どころかヒヨコの軍人に変身せねばならないのである。身辺のあわただしさではなくて、心の切り替えのあわただしさであったと云うべきであろう。
 
入隊してロクな訓練を受けることもなく四五日たつと、私がお便所(かわやと云わねばならなかった)にいっている間に出発命令が出たらしい。皆がハンゴウのふたに金時豆をついでいる。ゼンザイ代りで、部隊としてのハナムケらしい。公私ともに何ともしまらない話ではないか。こうして、またもそそくさと初めて部隊の門を出て門司に集合、輸送船(勿論荷物専用の改造)に乗る。そして何とその翌日の夜半、船はやられてしまうというあわただしさである。