『死縁』 -死を根底とした行き方- 死は突然のもの(1/4)

『死縁』 -死を根底とした行き方-              田辺聖恵

 死は突然のもの

『生あるものは必らず死す』生者必滅、これは深く考える事もなく、ひごろ誰でも□に出すところである。それはことさら教えられての事ではないが、そうして□ならし、心ならしをしているのかも知れない。無意識的に心の順応、準備をするのであろうか。
ところが本物の死は突然にやってくるものである。死は本来突然ではない。来たるべくして来るものである。気付かされる事が突然なのだ、と云い替えるべきなのかも知れない。
 
私が死に気付かせられたのは中二の時であろうか。叔父の二階に間借りしていた私は、朝、何人かの人が道向こうの河原で何かを云っているのに気がついた。その河原には一枚のムシロがかけてある。酔っぱらって誰か、夜中に河原へ転落して死んでしまったのかも知れない。東京の目黒川、そこでは時おり遊び場にしていた所である。
 
直接その死体を見たわけではないが、かえってその漠然とした死にざまに触れることが、私にとって一つの象徴的な事として心の底に影を落としたようである。もしその死体などを明らさまにでも見ていたら、死のむごだらしさや、あっけなさや、みにくさなどが印象づけられたかも知れない。だが二階からやっと分かるようなムシロごしの死を見たという事は、それが強烈な印象になるようなことではなかった。それは花曇りの午後のようなものだったかも知れない。しかしそれが五十年前の事なのに、その一場面だけがカッキリと記憶されているのは、初めての死縁であったからだろうか。 当時、啄木にかぶれて啄木のまねをし、三行に短歌のようなものを分かち書きしていたので、このような死も、一つの叙情的なものとして感じ取っていたのかも知れない。あるいは肉身とつながらない死を深く感じるだけの成長をしていなかったからかも知れない。
 
今ならかえって、そのような日常的な所で、あっけなく死んでしまう事に、その非情性を感じて考えこむかも知れないであろう。これは五十年間に一度も口に出した事のない、しかも心の底流にあるものなので、私にとってはゆるがせに出来ない死縁の始まりである。

[https://philosophy.blogmura.com/buddhism/ にほんブログ村 仏教]