勤労の聖僧 桃水 #29(6、禅林寺時代 その四)

私は、田中氏の思想する世界を観て、斯く想像する。
 
田中氏の、『愚直』或いは『魯鈍』に対する把握の仕方は、それに就いての現象型態的なるものを把握するに止まり、本質的なるものを把握しないのではなかろうか?―これを砕けていえば、『捉え方が上滑り』ではなかろうか?例えば、『魯鈍』という一事に就いて観る。それを現象型態的に観るならば、それが感銘せらるゝ場合に、鈍角的型態を帯びて感銘せらるゝならば、小愚も大愚も総じて『魯鈍』となる。
 
しかし、事物の本質なるものは、必ずしもその事物の持つ現象型態に相等しいものではない。
 
故に、若し、『魯鈍』なるものに就いて、それを本質的に観る場合には、われわれは、そこに驚嘆に値する『聡明』なるものを発見することが屡々あるであろう。
 
本質的なるものと、現象型態的なるものとは、どんなふうに一つの事物を構成しているか、『魯鈍』なるものゝ現象型態と『魯鈍』なるものゝ本質とは何に依って区別するか?それは、一定的にはいえない?それは、どんな目的をもって、そして、それは、一定的にはいえない?それは、どんな目的をもって、そして、どんな事柄に就いて、魯鈍か否かを区別するか、その目的やその事柄に依ってのみ区別することが出来る。
 
例えば、聖僧(桃水)の場合に就いて説述しよう。
 
面山禅師をして、『容貌魯鈍に似たり』と伝えしめた場合の、聖僧に於いて見ゆるその魯鈍は、現象型態的な場合の魯鈍であろうか、それとも、本質的の魯鈍であろうかというに、それに就いて鑑定する目的が、若し単に、世俗的な事柄に知らんと欲するのであれば、砕けていえば、世事に疎いかどうかを知ろうとするだけのものであれば、聖僧の魯鈍さは、本質的の魯鈍さである。
 
しかし、聖僧の知能の働きを知ろうとするのが、その場合に於ける目的であったならば、如上のそれは現象型態的の魯鈍さのほかの何物でもないということが出来る。即ち、聖僧の持つ『魯鈍』の本質を魯鈍と観るならば、それは誤認である。これを一口にいうならば、聖僧は魯鈍の人ではないというになる。面山禅師のいわれた前言を意訳するならば、聖僧は世事には疎い(或いは無頓着な)人ではあるが、実際は迚も賢い人だ、という訳である。
 
しかるに、田中氏は、その御著作品に於いて終始一貫して、聖僧を魯鈍な人として取り扱ってしまわれた。詰まり田中氏の思想する世界に於いては、聖僧の持つ『魯鈍』に就いて、それを現象型態的に把握することゝ本質的に把握することがよく出来ていないかの観がある。

 私は、先に、田中氏に就いて、聖僧に対する、その伝記者の従来の人々の中では、聖僧のことを伝うるに最も適した人であるといったが、その言葉の意味はこうである。―田中氏以外の、如上の伝記者は皆悉く、聖僧を観る場合に、聖僧の乞食生活に重点を置いた。一口にいうならば、その人々は、聖僧の当時の宗教界の腐敗、堕落を唾棄して乞食の群に身を投じた。宗教的法悦をそこに見出そうとしたと認めておられるが、田中氏お一人は、斯かる観方をしておられぬ。田中氏は、聖僧を観る場合に、聖僧の晩年に於ける勤労生活に重点を置いておられる。これもまた一口にいうならば、田中氏は、聖僧は宗教的なる法悦境を見出すに一生を挙げて苦しんだ、そして最後にそれを平凡なる市井の勤労者の生活の上に見出したと観ておられる。詰まり、真の宗教とは、究極に於いて、至って平凡なる勤労者の生活への道程に過ぎないと、田中氏は思想しておられるようである。その思想態度に私は同感したのである。私に如上の宗教観のある理由を説明するために、余談的ではあるが、次ぎに一つの話を掲げよう。
 
明治の初年に、西有穆山という高名なる禅師がおられた。或る日のこと、ちょうど、小僧の廊下を拭いているところを禅師が通り掛かろうとすると、その小僧が―「如何なるか、これ仏法?」と訊いた。すると、禅師は、「板間を綺麗に拭け」と答えられた。―という話である。
 
これは、決して、うるさいから斯く答えられたのではない。何でも雑念に捉
われず、一事を一所懸命にやっているところに、宗教的境地がある。仏法とは、畢竟、その宗教的境地から生まれたものだから、その宗教的境地におれば、如何なるものが仏法の大要であるかは分かる。その仏法の大要は、一生掛かっても説述し切れない内容を持った仏法と同じものであるから、それでよい、という意である。
 
然からば、真の宗教的境地は、雑念のない境地のことであるか、というに、斯く簡単に片付けては困る。後代の宗教家の中には、如上の話を自家の説教の中に悪用して、『商人は立派な商人になるのが仏法であり、軍人は立派な役人になるのが仏法である。立派な人間を作る以外には仏法の目的がある訳ではない。世の諸々の宗教の中には、宗教のあることを知って、人生のあることを忘れているものもある、神のあることを知って、人間のあることを忘れているものもある』―などと、如何にも誠しやかにいっている者もあるが、詭弁とは、斯くの如きものをさしていうのである。たとえば、単に立派な人間を作るだけのためならば、現在の『道徳』だけで沢山である。そこには『宗教』を必要とはしない。若しまた、そういう人が宗教と道徳とは一如化すべきものであるという見地に立っていて、そういう見地から『立派な人間』という言葉を作るのであれば、どうか?例えば、軍人は勇敢を必要とするから、勇敢なる軍人が立派な人間、役人は忠実を必要とするから、忠実な役人が立派な役人であるなどと簡単にはいえぬ筈である。何となれば、それは、自由主義的の観方である。また、それは、現実主義的の観方である。また、それは、超階級的、超社会的、超国家的、などの観方である。