仏教による幸福への成功方式 #57(第七章ダンマ 四聖諦 安産について)

安産について  

安産とは出産と同じ意味で自然的な生殖本能の現われだから正しい食欲、正しい性欲と同じに苦痛であるべきはずがない。ところが段々不妊、流産、難産が増えるのは何故か。それは心因による病気が増えるのと同じことである。高等動物つまり精神要素が増えるほど出産の回数は減って優秀な子を少なく立派に後継ぎさせようとするものです。ところが人間はこの性欲求を自分の愛欲の道具にしてしまい不正に使い勝手に中絶したり、妊娠を好まなかったりして、生殖本能に反する行動をとるようになり、ここに罪悪感が奥の心に植えつけられ、数代こうした苦の心因を繰り返し重複させることによって肉体的に出産を好まぬ態勢が出来上がります。これが子宮後屈その他の不調子となります。 

性欲は性殖本能を実行させる為の一時的な衝動であるから老年になればそれは退化する(妊娠したり沢山の子を育てる時は、女性の性欲は減退し母性化する)が種族保存の為の本能、子を自己から分化させ成長させてゆくという働きは退化することがない。女の子は子を育てる遊びをし老年になっても孫を可愛がろうとする。女性は愛欲というバラ色のフンイキの中で自分に不足する男性の一部を吸収結合して受胎し血液を通して栄養を与えて、それを分化成長させ、自己の延長、第二の自己、自己の新陳代謝、自己変化による自己保存をなすべく出産をする。これこそ人類が永遠に生命を続けたいという願望の尊い働きなのです。これは人間が食欲があると同じ自然な生理的営みなのです。
 
ところが日本では家長制度を守る為に女はかり腹と言われ男子を生む道具に見られたり農家の労働力としてのみ扱われてきた時代があったのです。男子を産む力がなければ家風に合わぬと離縁されたり二号さんと同居もせねばならなかったのです。こうして男子を産まねばならぬという無理な期待が不安と焦りをつくり出します。そうした夫婦愛のゆがみが他の男性によって満たされようとすると、これは姦通として厳しく罰せられました。もしそうして子を持てば闇から闇にけされてしまいます。この夫への不満、他への誘惑と自己批判、こうした自己暗示の心因が重なれば、ホルモンの変調やがての生理的不順となるのは当然です。又このゆきすぎた産児計画が中絶をくりかえさせ生殖本能(母性の性)への反対行動が内省化されてきて罪悪感をつくり上げます。又生活の文明化が体力を弱らせこの自然な生理的営みにまで堪えられぬようにしてしまいます。
 
その他の心因としては、初婚の夫や恋人のイメージが奥の心に沈殿してそれが心理的に影響して現在の夫を批判し嫌悪し、この愛情のゆがみが難産の因となってきます。はかない初恋の思慕でも、又親同志の婚約、先方のみの愛情でも、念の影響を受けるのは当然で、ここに念の上で三角関係となるから夫婦の愛情がかき乱されてくるのです。
 (実行)こうした念をかたち作るすべての心因をみ仏に懺悔し正常化して安産を祈るべきである。又告白は共々に仏教的訓練をつんでおらぬ中は徒らに苦しめ合うだけだから控えるのが賢明。
 (実例)信仰前の水児の霊の供養をなし、安産の祈念を続けたところ産院の出産台にのぼって五分後に安産した方がある。
 
 
 こうして先祖の心因と自己の心因を取り除き、正しく安産を祈念すれば、自ら日常の用 意が調えられるので無痛の安産が出来るのが当然である。自らも他の者も難産への予備知識をかかえこむ必要は全くない。


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