仏教による幸福への成功方式 #45(第六章ダンマ 実相 すべては求心運動 )

第六章 ダンマ「実相」(平等原理)

 ただ仏陀仏陀のみ
 諸法の実相 きわめたもう。
 即ち諸法の 相性体力作
 因縁果報 本末は
 きわまるところ 平等なり。 
             
すべては求心運動


諸法とはすべての法則や、その法則を含みかつ法則によって変化の相を見せる物のことです。実相とは真実の姿のことです。私共は縁起の根本原理によってすべてのものごとが変化して、一時もそのままで居るということはないという事を習いました。それはなぜでしょう。すべてのものは無明という状態から盲目的な迷いの行動を起こしました。類は類を呼ぶの法則の通り互いに求め合い、遂に物や人間を生み出したのですが、それで安定することは出来ず、調和を求めてはてしなく廻転運動をします。物は物を求め、心は心を求め、やがて真実の調和の状態(仏心)を求めて根源へと返ってゆくのです。

この楽を求めた初めの期待が外れて苦を生み出す現象、物の動きを流転縁起と言い、その苦から逃れるべく別の真理、仏心を求めてる動きを還滅縁起と言います。こうした現象が全く無目的で価値ある求心運動をせぬ時は諸法と言い、苦滅をはかり仏心へと求心運動をしてゆく時の姿を実相とも言えます。

諸法は(すべてのもの及びものごと)求心的欲求がこめられていない単なる自然現象であればそれは諸法で終わってしまう。しかし諸法も、求心的欲求がこもっていればそれこそまことの宗教的価値ある姿、実相となるのです。例えば単に自然の法則(諸法)を研究して原子爆弾を作り出すのと、人類の心の幸福を求める法則(実相)を研究して成仏の為の和合運動をするのでは格段の相違。

諸法は実相なり-この実相は常に真実の調和せる心(仏心)を求めてやまないその動きであるから「すべてのものは無限の求心運動なり」と意訳できます。単なる自然崇拝に止まらず正しい仏教的自覚を持った求心運動そのものにあなたもなって下さい。それがあなたの尊いまことのあり方実相なのです。自然に帰れとはよく言われ、もっともらしい考えであります。自然を征服し自然から飛び出そうとするのは不可能でただ苦しみと焦りを呼ぶだけです。自然ははかり知れない働きと動きを示します。縁起の法則によって変化します。しかし時には人間の為にならぬ津波や水害も与えます。縁起の法則を知ることによって、この自然の力を応用して苦滅の道へと進むことが出来るから、初めて自然への感謝もできるのです。自然はその故にありがたいが仏様と同じではありません。自然に帰りクソ蝿に生まれ変わっても仕方のないことです。自然法に従ってしかもそれ以上の覚りの世界へ入ることを世尊は教えられました。自然法に支配されない智慧の世界、実相の世界へと進みましょう。単なる苦楽、変化流転の自然に帰って苦しみをくりかえさぬようにするのですが、この実相の世界、つまり仏教的に真実の調和を求める心の世界は中々むずかしいので、仏様同志でなければ分からないとしてあります。しかしまるきり分からぬ原理でもありません。
 
これは宇宙観、世界観の完成であってこれをはっきり究められた方を、正遍知、正覚者つまり仏陀と言うのです。このまことの姿をつかむというのは、単なる智識(分別と言って物事をあれこれ差別をつけること-分別智)では世間の表面だけしか分かりません。実相とはすべての物や、なりゆきの一番奥底にある真実を言うのですが、それを見極める為には、差別の心(自己中心に怒り、欲、愚痴の三毒の心を通して見る心)を捨てて正常な心の目で(無分別智)見るようにせねばなりません。

この分別智、差別したがるが欲の心を捨てて、調和を求めるのが仏教徒なのです。それは家事の事から本格的修行までのすべてを含みます。わが子も隣の子も人の子に変わりがないと無差別、平等の見方が出来る時、あなたは仏陀の慈眼、仏心をつかんだことになります。実相とは平等をつかんだ心で見た自然の姿ということにもなります。ここに仏陀の覚りの境地というものがはっきり示されているのですが、これは執着を捨てきった清浄にして静かな境地と同じなのです。知識を通り越した理想の世界なのです。


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