仏教による幸福への成功方式 #41 (第五章ダンマ 縁起 世尊の成道の真相)

世尊の成道の真相

仏教の根本原理である縁起が世尊によって正しく覚られたのですが、その当時の様子を考えてみましょう。当時は戦国時代で強い国が弱い国をおさえ、人々は自分の国を強くしようと張り切っていました。しかし一方快楽に溺れる人々も多く、又一方ではまじめに正しく生きる道や死後の幸福などを研究するグループも多かったのです。それで青年の理想は立派な王様になるか覚った方仏陀になるかでした。世尊は王子として何不自由なく十年の結婚生活をしておられました。実母マヤ夫人は世尊を産まれると七日目に産後の無理で亡くなられました。マヤ夫人は実家に帰る旅の途中で出産なされ、そのまま又後がえりされたのです。マヤ夫人の妹、ハジャハダイという方が世尊の養母となって世尊をお育てしました。世尊は何不自由ないような生活ではありましたが、幼少時代からもの思いをすることが多く、学問や冥想によって単に一国の王様となるのみでなく、もっと人間全体の苦しみの解決、真の生き方を求めておられました。結婚後十年目の或る日、旅先で王子が生まれたと聞くと思わずラーフラ(解脱のさまたげ)と言われ、その日お城に帰って夜半こっそり城をぬけ出して出家されました。ラーフラは王子の名となりこの王子も養母ハジャハダイ夫人も後に世尊のお弟子になられました。

さて世尊は当時有名な修行家について習いましたが満足せず、山にこもって六年間あらゆる難行苦行をなされました。後に自分のように徹底的に苦行したものはないとよく言われました。しかし骨と皮ばかりのようになっても未だ覚られず、これでは駄目だ苦行ではかえって肉体に対する不安や執着がつのるばかりで、肉体の力を制御することによって、肉体に支配されない霊魂((Atmanアートマン我)をみがきあげて自由にさせ、宇宙の本体(Brahmanブラフマン宇宙我、梵、創造主)と合一させるという修行は根本的に間違ってはいないか、つまり見たことも逢ったこともない宇宙の本体に、つかみ出すことの出来ない固定的な霊魂とを合一させるという当時の理想論に対し疑いを抱くようになられました。苦行によって肉体の力が弱ったとき、その合一が出来たとしても、力が回復すればその合一が消えてしまい、完全な合一は肉体がなくなってからしか出来ないというのでは、生きている人間にとって役に立たぬではないかと思いつかれて遂に苦行を止められました。当時苦行することは最高の尊敬を受けたものですが、そうした名誉欲も捨てきってニレンゼン河で行水をされて、村娘の牛乳のお粥の供養を受けて体力の回復をはかり、一枚岩の上にムンジャ草をしいて坐られ(金剛座と呼ばれ現在インドにあり)智慧によって覚ろう、もし覚れぬならば死んでもここを立つまいと決心されました。

「信あり、次に精進あり、又慧もあり、このように一心に努力する我は何で生を求めよう。わが血潮はかれて膽汁も痰もかれてしまえ、わが肉体がなくなってしまう時、心はますます静かに澄み、わが念も慧も定もますますしっかりとなる。このようになり最高の法悦を得たるわが心は、諸の欲を求めず。見よこのわれの清らかさを」(精勤経)

このきびしい、いのちの奥底からの叫びと喜びを私共は深く深くかみしめねばなりません。み仏となる直前のこの充実したいのちの斗い、試練と精進を悪魔(マーラ)の誘惑とそれに対する問答として次のお経は述べてあります。
  
「マーラよ、汝の第一の軍は欲、第二の軍は楽しまぬということ。第三は飢えかつえ、第 四は激しき愛欲、第五は怠けと眠り、第六は恐れ、第七は疑惑となり、第八は偽善と強情。又利益と名誉と尊敬と自惚れと軽蔑は汝の手下なり。勇なき者はそれに勝たず、勇者は勝ちて楽を得る。この世における愛欲の生はいとわしきかな。もし我破れて生きながらえるより、戦いて死すこそすぐれたり。我は汝の軍を慧をもって破る。石をもって生の土鉢を打ち破るが如し。

悪しき行為を止め、善をなし、自由に思をめぐらし正しく念をもち、国より国に我は旅をせん。広く弟子を導きつつ。わが教えを行ずる弟子らは怠けずして精進すれば憂いなき無欲の涅槃に至るべし」
(精勤経)

何と勇ましいことではないでしょうか。人は仏教徒は、この心の中におしよせてくる悪魔と戦わねばなりません。そして智慧によってそれを打ち破るのです。肉親へのきずな、あやまれる官能的な愛欲を正しい欲求にと転換し、人生の目的を達成せねばなりません。

当時一切を創造しかつ支配すると考えられ、恐れられていた神に対しても世尊は断固として、そうした創造神などは迷いの産物であると覚られました。死をも恐れぬ心になり肉体に対する執着を捨てきられた時に、初めて縁起の原理をはっきり覚られたのです。死の苦しみやおそれは皆、迷いと執着(無明と愛)からくるのだ。その苦の因を覚れば苦の果はなくなる。これある故にかれもあり、これなき故にかれもなし。この明快そのものの簡単な原理が何故今迄に分からなかったのか、それは皆、神に支配され、又は神を無視しようとしたりした無理な迷いから抜け出すことが出来なかったからなのです。

動物的な無智による自己保存、種族保存を清算して、それらを否定するのでなく、その最終目的を体得完成されたのです。

神への恐れ、肉体への執着、名声への執着をすっかり捨てられた時に、この世の中がありのままに見えたのです。縁起とは、人間の欲心と期待やおそれをもって見るのでなく、ただありのままに世の中を見るということです。誰が作るというものでなく、すべての物事が互いに影響し合って変化してゆく。これが世界であり、人間なのです。この真理を覚れば私共は不正な欲求をひっこめて、正しい欲求に従って人類の為に生き抜くより道はないことが分かります。世尊が道をなしとげられ旅立たれたように私共も信仰の旅の用意をせねばなりません。

暗やみは終り、暁の明星がキラキラと一きわ輝いた時、世尊の正覚は完成され、人類の夜明けとなったのです。時に十二月八日、成道会として全仏教徒が祝うべき日です。

「奮い立てよ、怠ける勿れ、正しき法を行なえよ。法の如く行なう者は、この世後の世も楽しく眠るべし
(法句経)

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