仏教による幸福への成功方式 #39(第五章 ダンマ 縁起 政治と宗教)

政治と仏教
仏教は共産主義でも資本主義でもない。何故なら単なる政治にとどまらずもっと大きな人類の正しい生き方というものが狙いなのだからです。人類が洞穴で暮らしていた時分は、共同家庭、集団的でした。個人は単独で暮らすほど力強くはなかったのです。今日は猶更です。停電しても大騒ぎするほど文化的ではあるが人間的ではなくなりつつあります。しかし集団が国家単位になってくるともう一息、世界国家主義になるべきでしょうが。それには全体が仏教による世界の和合を考えるように水準が上がらねばなりません。

 一国家内にも有産、中産、無産と物の多少でクラスを分けるくせがありますが、これを仏教徒と無信仰者に分けるとどうでしょう。物は正しく生きる為の道具なのですから一方に金や物が偏るのは誤りです。中道、中産つまり人々は中産化されるべきです。

 ここで世尊が二五〇〇年前に形成されたサンガ教団を一寸考えてみましょう。このサンガは二重になっており、専門に仏教の目的を追求修行するものは妻子をもたずに自由となり、最小限の食事を乞食によって施して頂きいづれの地に移っても、自分の目的達成と衆生救導の仕事が出来るように質素そのもののグループを作りました。一方在家の教団はこの僧団を供養して養い教導をうけることによって相互に恵み合うていました。こうして在家は求道心が強ければ若くとも、そして老人は自然にこの出家僧団に加わっていったのです。僧団は供養を受けた財物すべてを共同にて使用し誰のものともしません。これは余程、良識と責任感が発達していないとうまく維持はされません。世尊はいかにお寺や道場の施しを受けても個人のものとせず共同管理のもとにおかれました。つまり個人も共同体も所有するという考えはなかったのです。在家の方はこうした清らかな共同生活方式を見習うので、当然その影響を受けて、あまり所有欲を主体とした政治形態は作らなかったのです。人々はかなり自由に生活していました。但し戦国時代でしたから王様の力が強かったのですが、王様も大衆の幸福を無視することはあまりなかったのです。現在の日本でもまず所有なき共同管理のサンガを先ず作り、政治家や実業家の再教育をすれば、個人的財産の集中化を食い止められるし、一定以上の財産が一般に還元されるようにすれば中産化はすぐに出来て全体の幸福が早期実現されます。

 二重僧団が確立してもっと密接に僧職者がグループ指導を始めれば社会構造は改善し易くなります。個人欲求を野放しにして正善化する努力の足らない資本主義は理想に遠いし、個人欲求を無視する共産主義は理想に背を向けています。経済を主とする政治形態はいくら考えてみても駄目なので仏教を主とした政治形態のみが正善欲求を正因とした正しい形態を作り出すものです。生き方に最高の理想を持たぬ政治家や実業家によってあやつられるものでは改善がおそいのです。これが日本の最大のなやみであり、過去の宗教家の活動の結果なのです。宗教家は政治家にこびることなく、勇気をもって指導せねばならないはずです。宗教家が票を集めてにわか政治家になったとて何が出来るでしょう。宗教家よ、まず政治家を導け。

「恥ずることなく烏の如くあつかましく、他を傷つけ荒々しく汚れたるものの生活は易し」

「恥ずる心あり常に清らかさを求め、物に執着なくおだやかに清浄の生活をなし、智慧のあるものの生活は難し」
(法句経)

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