仏教による幸福への成功方式 #36(第四章三宝印 すべてからの自由)

すべてからの自由
人間はいくら健康でも上からあまりおさえつけられたり、何か欲しいと思うと夢中になってしまうのでは、真の幸福、自由な人とは言えません。三毒の心から逃れたのが涅槃であり自由でした。自由という言葉は外来思想であったのでまだ日本では体質化されていませんが、仏教では自在といってきました(自在カギなど)。お観音さまも観自在菩薩とも言います。自由とは何事にも不自由を感じないことですが、外来思想としての自由主義とは個人の自由を尊重し合っておかさないように妥協し合うといった感じで、お前はお前、俺は俺といったところがあります。しかし仏教ではこうした不干渉による妥協的自由をいうのではなく、物やその他への執着の心とを乗り越えたもっと完全な自由を言うので(無礙-さわりなし)それを相互依存、助け合いの精進によって作り上げて行くことが自由浄土の現実化です。決して仏教は現実を逃避して夢の世界でせめてもの自由を楽しもうなんてケチなものではありません。この世から逃れるのでなく、この世の苦を解決せよということです。

 苦を解決する為には苦の因に近づくな、つまり苦を生み出すような生活法をするなということが世尊の真意なのです。この悪い生活法(悪因)に対して消極的になれということです。映画も小説も酒も女も実に悪に対して積極的ではありませんか。私共はまず悪に対して消極的否定的となり、次に善い生活法を(善因)に対して積極的肯定的とならねばなりません。日本的仏教はこの積極性を欠いていました。時代的制限があったのです。今こそ信仰の自由がある時代です。この時に世尊の念願された仏陀と正法と正僧伽の三宝のこもった浄土作りが現実化されねば、永久にチャンスがないと見るべきです。

 日本人はあまり権威に弱く悲しい劣等感を持ち易いのですがこの不自由さをひっくり返して日本人でなければ真の仏教の再興は出来ないと指導性を自覚しましょう。この三宝のこもった真の仏教をこの世によみがえらせるという行動性のみがすべての不自由を真の自由に転換させる正行なのです。自由の人とは自由に信じるところを行動出来る人。世尊はあなたに期待をかけておられます。心が弱まる時、不自由な時、口にナンブッダ、ダンマサンガを唱え正念正定を繰り返して、浄土作りという大事業に参加して下さい。

 三毒を滅するという内攻法と、浄土作りという外攻法とを両方活用すれば、あなたは間もなく仏子となり仏教の旗を高くかかげた、和合の旗手となるでしょう。

「パンチャンツカよ、私は今垢れを離れ、欲を滅ぼし寂静と覚りの涅槃のための清浄の行を説く。即ち八正道がそれである。この教えを全部了解するものはすべての煩悩を滅ぼして現在に覚りを開き、一部を了解しただけのものでも聖者の仲間に入って必ず覚りに至るものと定まり、無益無効のものはない」 (典学経)

「ボサツは清らかな信念をもって人々に、歓喜の心、明らかな心、柔い心、慈しむ心、愛の心、摂めとる心、恵む心、安楽の心、勝れた心で善根を与えよ」(華厳経


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