仏教による幸福への成功方式 #35(第四章三宝印 効果的先祖供養の仕方)

効果的先祖供養の仕方
 先祖とは自分を生み出してくれた両親であり祖父母であり、百年前千年前もつながりのあった方々ということになります。あなたはこの先祖の肉体的心的遺伝を受け継いだのだからその影響をのがれられません。しかし又あなた自身の努力の影響もあるのだからあなたの幸福は先祖の因縁とあなた自身の因縁と二つの綜合的な果ということになります。もし今幸福なら先祖に感謝しましょう。不幸なら先祖の因と自己の因を善因に転換するように祈らねばなりません。又自分の幸、不幸の為ということをぬきにして先祖の念のおさまりを祈ってやる具体的作法が先祖供養というものです。先祖が霊魂という固まりであればどう祈っても運命的で変化させることは出来ないかも知れませんが、生前の念の残りがつまり先祖なのです。先祖の念の一部は墓に一部は位牌に一部は子孫や他の人の心に分散されて残ります。もし生前にこうした迷いの念を残さないように信仰に精進したものはみ仏の世界へ念が直行します。ところが生前にそうした充分な信仰をしていない為にほとんどが妄念を残してしまいます。身体と欲心だけ暮らしていて死ねば身体はなくなり欲心(念)だけは焼いてもどうにも消えず青白い欲念の煙のようになってしまいます。身体のない欲念を執着の鬼といいます。もし死んだなら是非生まれ変わりたいという念が強まり、他の人の肉体を使って肉体を求めて生まれ代わってくるということになります。

 生前に欲念を捨てて正念しておけば、肉体がなくなる時成仏です。あなたの先祖は成仏を知り求め、死ぬまで肉体やすべてへの執着を捨てていたでしょうか。もし出来ていなければ念を残しているから、その念の成仏を祈念してやりましょう。

 位牌-位牌を見れば誰だったかすぐ分かるのは念の影響を受けているからです。それは単なる板切れではなく残された念を一応それに納めるのです。それが供養し易い合理的な美しい作法なのです。白木は假の間に合わせですから四十九日一年忌、或いは三年忌までには黒塗りのものに変えて僧職の方に念をうつして貰うべきです。又古いお位牌が沢山あれば一人一人に供養も出来かねますからこの際整理して、夫の〇〇家先祖代々の霊位、妻の〇〇家先祖代々の霊位と二つの黒塗りの位牌を立てるとすっきりなり、百年前千年前の先祖もその中に入ることになり同時に供養が出来てよいでしょう。古い位牌は志をそえてお寺に預けるか焼いて貰うとよいでしょう。そして俗名戒名行年何才命日などの五十年以内の方々の命日表を紙に書いて張っておくと便利です。

 墓-先祖の念はその肉体の消滅(実は自然に帰った)によって大部分消えるべきですが、お骨がいつまでも土に帰れないような素焼きでないカメに入れたりコンクリートの中に納めるのはまずいことです。あとかたが一切なくなるのが自然に帰る道です。納骨堂式はよく研究しないといけません。又かたみを記念だと執着して持っているのも、その念の残りを強めるだけで共々に苦しむことになります。未練で思い出す種にするより、共々いかにして未練を捨てるかが大事、そしてあとかたのない成仏を祈ってやって下さい。墓もあまり見栄をはれば他の人々の嫉みをずっと受けることになります。葬式もすべて中位にして、墓を作ったり何かの仏事をする時は必ず他の人に供養をして喜ばせることです。
 (実例)何年も頭重な人が来ました。墓がたっていないとの神通にて、話すと、お父さんのお骨をお寺に預けたままだと。早速墓を整理していけたらすぐに治ってしまった。普通骨をいけずにおくと寒気を受けることが多く、墓の作法がよくないと頭重も受け易い。理由をつければ、念の分散がされていないこと、又先祖の供養が出来ていないという良心の苦しみ。

 お仏壇-とは仏陀と先祖を祭り礼拝供養し又私共が修養する道場ともなるのです。壇とは一段高い特別なところのことです。金ピカのお仏壇は極楽のようなありがたい感じを受け易いようにしてありあるのですが、それは仏様先祖様を尊敬してすべきで財産比べになってはいけません。仏壇も中位がよいでしょう。仏壇を早く作ると死人が出るというのは迷信です。分家早々仏壇まで金が回らないというのが本音でしょう。特に転勤などの多い人はもっと軽便なお仏壇を作るべきだし、又間に合わせには仏像か仏画に両家の先祖代々の位牌を立てて水屋の上にでもまつり、そこを一応清浄な処として決めればよいでしょう。ともかくすっかり揃えることより一日も早く始めることです。お燈りお線香、お水ご飯などは常識で結構。こうした作法をすれば先祖の念を分散させ、もししなければ自分の奥の心に念を全部受けるので苦因となります。

 ご供養の実際的方法-先祖に物を上げて、お下がりを頂きますと食べてしまうのが普通ですがこれはあやまり。お供えして養うのが供養ですが先祖は口がないから食べられず形は残ります。これを他人にやれば功徳になります。頂いた人は喜んであなたに感謝します。しかしそれは先祖のものをやったのだからその感謝は先祖にふりむけ(回向-向え回す)するのです。するとその功徳、善根の力で先祖は段々成仏してゆきます。先祖がよくなれば子孫を守ってもくれましょう。自分がよくなれば先祖のおかげだから再び感謝の供養をするこれをくりかえすのです。先祖と人と自分と三者が喜びこれを見守る仏様も喜ばれます。ここに社会的な浄土作りの第一歩が始まります。お下がりを頂くなどと考えず自分達が食べる分は初めから分けておけばよいのです。供養の分はもしさし上げる人がいない時は川に流すかちりだめを通して(供養しますと念じながら)自然に供養して下さい。水児の供養には牛乳などがよいでしょう。法事でも葬式の時でも通りがかりの人や乞食や子供などに一部を供養することが必要です。親戚や隣家の人にする分はとかくやったりとったりのおつき合いになります。それも必要ですが供養とは別です。

 年忌とは-先祖供養は親孝行ですから、かねて毎月の命日の供養が大事です。年忌とはかねて充分に出来ないからまとめてするということですが、苦になって大金をかけるのは単なる親戚への見栄ということになります。喜んで出来る分だけしましょう。形式では先祖は喜ばないのです。
 (実例)八月や十二月に一ヶ月の高熱や原因不明の大病をする時は前年くらいに十三年忌か十七年忌の方があります。しっかり供養をすることが大事です。 
 
 財供養から法供養に-初めは物の供養をして僧職の方に法の供養をして貰うのですが、作法として自分も末席に坐りそのお経(み仏のあなたへの法話)を分からぬ乍らも聞いて静かな心になり奥の心に伝えるようにして下さい。次に一句でもよいから法話を受けて仏教理解の一歩として下さい。次の段階ではお経を誦えさせて頂き在家としての作法を完成して下さい。もっとも現在迄僧侶はそうした作法を在家に教えることをしませんでした。しかしあなたに熱意があれば教えて貰えます。(礼拝法を参考に)

 お経を誦える時、口に出して誦えるのですがその声があなたの耳に入る時は仏様からのお説教なのですからありがたく聞いて下さい。ところが今迄分からない漢文で誦えていたのでありがたいような感じがするというだけで心から納得はいかなかったのです。日本語に近いのもありますからそれを勉強すること。さてその正法が分かってきたら、他に功徳をつむ為に施さねばなりません。それは正法の話をして喜ばせることです。

 そして初めて他人を正法によって喜ばせたことの善根を先祖へ回向したことになります。あなたが法供養出来る段階にならないと、つまりあなた自身が仏教の理解が出来てこなければ、あなたの奥の心にある先祖の迷いの念も分からないから共々に苦しみます。先祖供養はあなたがせねばならぬので、その指導の為に僧職を呼ぶのが本当です。世尊は仏壇に向かって礼拝するということはなく、生きている人々や神々に対して直接お説教なされました。その人が分かるようにその人の生まれ来る前にお前はこうこうだったぞと過去の生まではっきり教えられたことも多かったのです。それは今の果の説明をなさる為だったのですが、世尊はその人にそしてその人の奥の心に話し掛けられたのです。仏教徒は自分にこそお経を上げて貰わねばならぬのです。しかし賢明な読者は旧来の作法をむやみに破ることなくその中から積極的に仏教の理解へと進んで下さい。

 財供養と法供養とは平行して行うこと(自分でお経を上げられるようになったからとて僧侶を断わらぬこと。断われば自分としての財供養が出来ず、又僧侶を苦しめることになる)僧侶への施は本来、感謝と尊敬とをもってその僧侶の生活と宗教活動を支える為にするものですが、現今あまり尊敬出来ない方もありますが、しかし僧侶を在家が批判してはなりません。ただ施をする機会が与えられたことを感謝し仏教を少しでもその方から求めて下さい。

 ナムアミダ仏と十年も言っているが一寸もよくならないと言われるが、財施と法施が揃っていないからです。善因をまかず、自己の往生のみ願っても、善果は今世には得がたいということになります。
 (実行)法施をしたいがまだ人に話しきらないという時はよき法施をなさる方に縁作りをしてやるとか、よい信仰の本を配るとか、自分の懺悔話をして(懺悔供養-これはあな他の悪い心因を除き善果へと改めてくれる最適法であり、信仰の導きともなる)やるとか、僧侶の話をそれとなく聞かせてやるとか、例えば嫁や子等に一緒に法話をうけさせるとか、信仰の本を目がうすいからと呼んでもらうとかしましょう。

 昔インドであまり勉強していないお坊さんが居りましたが、丁度ある信心深く法話を楽しみにする奥さんの家で、今日は命日だからと色々ご供養を受けました。さて奥さんはこれからどうぞご法話をして下さいと下座に坐って目をつぶりました。お坊さんはごちそうで腹はふとりましたが何と話してよいか分からずすっかり困って、全く「受は苦なり」と思い乍ら奥さんが目をつぶっておられるのを幸にそろっと逃げ出してしまいました。奥さんはいつまでもお話しがないので、ひょいと目をあけるとそこにお坊さんがおられない。そこで「いつまでもそこに人が居るという考えはあやまりである。すべてものごとは変わりゆくものである」といういつも教えられていたことを思い出して、そこであゝこのことかと深くさとることが出来たという話があります。たとえ一句でも法話を求めて下さい、但し世間話にならぬように真剣でなければなりません。あなたのその真剣な五分間は一生の内再び戻ってはこないのです。こうした供養法のみが悪因を止め善因をまき、前世、今世、来世にわたり自分と先祖と子孫と他人に対し善果に転換させる最も効果的実際法です。

「この世に楽と喜びを起させるものが幸福である。この世が常ならず苦しみであり、移り変りであるということが禍である。貪りの欲をおし止め捨てされば、それがこの世の苦しみから逃れる道である。比丘らよ、私はこの世の幸福をさがし求め、その源を知った。又この世の禍をさがしその源を知った。又この世の苦しみから逃れる道を考えその源を知った。

 比丘らよ、私がこのように世の幸福と禍とこの世の苦から逃れる道をありのままに知った時、この上ない覚りを開いた。今や私の心は動かぬ。『これは私の最後の生である。こ の外に再び生を受けぬ』という智慧が生まれた。

 比丘らよ、もし世に幸福がないならば人は世に執着しない。世に幸福があるから執着するのである。又もし世に禍がないならば人は世を嫌いはしない。

 世に禍があるから嫌うのである。又世の苦しみから逃れる法がないならば人は世の苦しみから逃れない。その法があるから世の苦しみから逃がれるのである」