仏教による幸福への成功方式 #34(第四章三宝印 霊魂とその行方)

霊魂とその行方
 我欲をもっている私共は、その我欲の根本、霊魂というものがあり、死んでもどこかに霊魂としてそのまま存在するという考えを持ち易いのですが、これを有見(霊魂存在論)と言います。少し信仰に入ると魂はあると信ずるように大概なります。すると死んだ魂が人を苦しめたりするという考えも出てきます。生きているうちの心を魂と思いこむ人もあります。又一方は、いや死んだらおしまいで何も残らない、魂なんてありはしない、それまでさという考えをもちます。これを無有見(霊魂否定論)と言います。そしてとかく生きているうちにやりたいことをしておけという快楽主義になります。どちらも二辺、両極端でそれはいけないのです。中道が仏道です。心となづける精神作用をなすものは肉体全体につながりをもつ大脳のしかも皮目のところにあると考えられます。この大脳は肉体が死ねばだめになるので心もだめになるはずです。つまり肉体と心は分けることは出来ないのです。仏教ではこれを心身一如と言います。心という固まりがあるのではなく大脳などの肉体すべてを総合的に使って精神作用をした時を心と呼ぶのです。丁度電線の中を電気が流れているが電気だけが別に存在するわけではない、電線のないところで電気を使うわけにはいかないようなものです。つまり大脳を踏み台にして働くそのつかまえどころのないようなその働きを心と名づけたわけです。働きですから固まり本体といった魂とは違います。

 心は働きですから刺激や経験などによって働かされるので、刺激が変われば心も変わるので、どんな悪人の心でも変えられるわけだしあなたも当然自己改造できるわけです。

 この働く力を心といい、心を働かせることによって表面化されたのを念といいます。懐中電気が心でスイッチを入れて働かせた光が念です。

 さてそれでは肉体の死後はどうなるかというと、この生前の心の働き念は、必ず外部の人や物にうけつがれます。この念を受けた人はその人の心に波を立たせてやがて奥底に記憶となって沈みます。もし子をもてば親の念は子にうけつがれてゆきます。祖父の代の心的遺伝が父を通して孫に伝えられます。この念は固まりではありませんが他に影響し他を動かす力はもっていますね。家の影みたいなもので影を手にとって見ることは出来ないが、そこは暗く野菜もよく育たないという苦しみの影響現象、結果を生み出します。影だといって油断してはいけません。では死後に固まりのような霊魂がないのに何故先祖供養などをするのか。


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