仏教による幸福への成功方式 #33(第四章三宝印 四相)

四相
 すべてのものは、うつり変わりするということ、そしてうつり変わりするものの中に、変わらないという我という本体はないということを習いました。その変化の法則は一応、生住異滅の四相というコースをとります。人間も生まれ育ってしばらく住み繁栄し、やがて腰も曲がり異なった形となりやがて形もなくなってゆくというのです。生、老、病、死の四苦と似た意味ですね。二十代の若さがそう永く続くわけがありません。草も木も地球ですらも、四相の変化をしています。昔の人には起承転結なんて言葉も似ていていいでしょう。この四相の教えはナーニ自分は病気したことないから前とちっとも変わらないと、自分だけ特別扱いにしたがる間違った考えを捨てさせるためのものです。自分も例外ではないのだ、やがて亡びゆく肉体をいかに有効に使わせて頂くか、自分の愛欲にばかり使っていたら、人生の目的を達しない内に肉体はなくなってしまう。肉体のある内に肉体を必要としない真の喜び、肉体の余りがなくともよいという涅槃をつかみとる練習をしておかねばならぬということになります。

 この生滅する八十年の肉体は、永遠の年数からみれば一瞬間のような短いものかも知れません。生まれてくるというのは常識的に外形を見ての話です。本当は生まれたのではなく、他のものの寄せ集まり、寄り合ったもので、一つ一つ、違う形になった、変化の途中のことです。この世の中に新しく生まれるものは何一つないのです。ただ変化の途中が智慧が足らないと生まれたように見えるだけのことで、ここに生まれるということがないから又、死ぬということもないので、死ぬように見えるのも変化にすぎないのです。住も異も同じです。若いといっておごるな怠けるな、老いたりといって嘆くな悔やむな、若い時は若い時のように、老いては又老いたるように最善をつくすのです。ここに悔いることなき一生と輝かしい来世とのつながりが出てきます。もし悔いの一生であればそれだけで終わらず来世においても苦しまねばなりません。生住異滅をよく知りそしてそれにとらわれず、それを苦と思わずひたすらに人生目的の為に道を急ぎましょう。

「比丘らよ、ここに五欲がある。それらは愛らしい姿をして人々を誘惑する。眼で見る形、耳の聞く声、鼻のかぐ香、舌の味う味、身体のふれる感じがその五欲である。いかなる比丘も、この五欲におぼれその禍を見ず、それより逃れる道を知らないならば『不幸に沈み災にあい、悪魔の思うつぼにはまった人』と呼ばれる。丁度森の鹿が、わなにかかって倒れている時『この鹿は、猟師の思うつぼにはまって逃げることが出来ない』と言われるのと同じである。
  …中略…比丘らよ、森の鹿が山を自由に走り安らかに起き伏しているのは猟師の行かれぬ所にいるからである。それと同じく五欲の禍を見、四禅を修めれば悪魔を盲にして、それから逃れる人と言われる。彼の立ち居ふるまいは自信に満ちて安らかである」
(聖求経)

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